神の箱の返還 サムエル記第一6章1節~7章1節

【新改訳2017

Ⅰサム

6:1 【主】の箱は七か月間ペリシテ人の地にあった。

6:2 ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「【主】の箱をどうしたらよいでしょうか。どのようにして、それを元の場所に送り返せるか、教えてください。」

6:3 彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。神に対して償いをしなければなりません。そうすれば、あなたがたは癒やされるでしょう。また、なぜ、神の手があなたがたから去らないかが分かるでしょう。」

6:4 人々は言った。「私たちが送るべき償いのものは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数に合わせて、五つの金の腫物、つまり五つの金のねずみです。彼ら全員、つまりあなたがたの領主たちに、同じわざわいが下ったのですから。

6:5 あなたがたの腫物の像、つまり、この地を破滅させようとしているねずみの像を造り、それらをイスラエルの神に貢ぎとして献げなさい。もしかしたら神は、あなたがたと、あなたがたの神々、そしてあなたがたの地の上にのしかかっている、その手を軽くされるかもしれません。

6:6 なぜ、あなたがたは、エジプト人とファラオが心を硬くしたように、心を硬くするのですか。神が彼らに対して力を働かせたときに、彼らはイスラエルを去らせ、イスラエルは出て行ったではありませんか。

6:7 今、一台の新しい車を用意し、くびきを付けたことのない、乳を飲ませている雌牛を二頭取り、雌牛を車につなぎ、その子牛は引き離して小屋に戻しなさい。

6:8 また、【主】の箱を取って車に載せなさい。償いとして返す金の品物を鞍袋に入れて、そのそばに置きなさい。そして、それが行くがままに、去らせなければなりません。

6:9 注意して見ていなさい。その箱がその国境への道をベテ・シェメシュに上って行くなら、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのはあの神です。もし行かないなら、神の手が私たちを打ったのではなく、私たちに偶然起こったことだと分かります。」

6:10 人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている雌牛を二頭取り、それを車につないだ。子牛は小屋に閉じ込めた。

6:11 そして【主】の箱を車に載せ、また金のねずみ、すなわち腫物の像を入れた鞍袋を載せた。

6:12 雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一本の大路をまっすぐに進んだ。鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、その後について行った。

6:13 ベテ・シェメシュの人たちは、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げると、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。

6:14 車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑に来て、そこにとどまった。そこには大きな石があった。人々は、車の木を割り、雌牛を全焼のささげ物として【主】に献げた。

6:15 レビ人たちは、【主】の箱と、そばにあった金の品物の入っている鞍袋を降ろし、その大きな石の上に置いた。その日、ベテ・シェメシュの人たちは全焼のささげ物を献げ、いけにえを【主】に献げた。

6:16 ペリシテ人の五人の領主は、これを見て、その日エクロンに帰った。

6:17 ペリシテ人が償いとして【主】に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。

6:18 すなわち、金のねずみは、五人の領主に属するペリシテ人の町の総数によっていた。それは、砦の町と城壁のない村の両方を含んでいる。彼らが【主】の箱を置いたアベルの大きな台は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。

6:19 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。【主】の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。【主】が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。

6:20 ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、【主】の前に立つことができるだろう。私たちのところから、だれのところに上って行くのだろうか。」

6:21 彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を遣わして言った。「ペリシテ人が【主】の箱を返してよこしました。下って来て、あなたがたのところに運び上げてください。」

 

7:1 キルヤテ・エアリムの人々は来て、【主】の箱を運び上げ、丘の上のアビナダブの家に運んだ。そして、【主】の箱を守るために彼の息子エルアザルを聖別した。ました。下って来て、あなたがたのところに運び上げてください。」

 今日はまず、神を自分の主と認められないペリシテ人について学んでいきましょう。ペリシテ人は、どうすれば主の箱をイスラエルに送り返せるか、祭司と占い師に尋ねました(2)。祭司と言っても、イスラエルの祭司ではありません。また、占い師と言ってもカードや水晶を使う、私たちが知っている占い師とは違うようです。ただ、彼らは神のことをよく知っており、ペリシテ人に非常に的を得たアドバイスをしました(4)。償いの物がなぜ5つなのかと言うと、ペリシテ人の主要な町が5つあったからです。この5つの町を襲った腫物を取り除いて下さい、という意味合いを込めて金の腫物を神にささげることにしたのです。ただ、ペリシテ人は償いをすることに大きな葛藤がありました。償いを送るとは、敗北を意味するからです。神に負けを認めて、真の神様の支配下に入ることは、彼らのプライドが許しませんでした。祭司と占い師は、なぜ心を頑なにするのですかと、ペリシテ人に問いました(6)。つまり、神に降伏なんてしたくないというペリシテ人が一定数いたことがわかります。

リック・ウォレンというアメリカの牧師は、礼拝の本質は何かと問われた時、礼拝とは降伏すること、神を自分の主として認め、自分の人生すべてを明け渡すことであると言いました。人が人に対して負けを認めることは、非常に辛く悲しいことです。しかし神に対し降伏し、神の統治下に入ることは、私たちの人生に真の安らぎをもたらします。私たちはもう自分の能力を誇示する必要がありません。私たちは神の使命にだけ目を向ければいいのです。また、私たちが重病を患ったとしても、絶望する必要はありません。最終的に、神は必ず天国に私たちを導いて下さるからです。

イエス様の母マリヤは、なぜ神の母に選ばれたのでしょうか。一つは、彼女が神に人生を明け渡していたからだと思います。マリヤは、天使にあなたから神が生まれると告げられた時、おことば通りこの身になりますようにと言いました。私の人生のプランはこんなつもりではなかった、とは言いませんでした。なぜなら彼女は神に降伏していたからです。もし私たちが神様に降伏しなければ、別のもの(金銭、プライド、恐れ、人の期待など)に降伏します。私たちが降伏し、すべてを明け渡すべきお方は一体誰でしょうか。

さて、ペリシテ人は結局、神の箱をベテ・シェメシュに送りました(14,16)。イスラエルに神の箱が返ってきた、ベテ・シェメシュの人々は大喜びで神の箱を迎えました。ところがこの後、とんでもない失態を犯してしまいました(19)。神の箱は神殿に安置されている場合、至聖所という最も奥の部屋に置かれ、至聖所は幕で仕切られ、大祭司が年に一度だけ入ることが許されました。ですから、一般人は主の箱を見ることすらできません。しかしベテ・シェメシュの人々は、神の箱を開けて覗いたのです。箱を開けて覗いたくらいで怒り心頭の神様は恐ろしい、とても親しくなんかなれないと思われるかもしれません。しかし、親しいと馴れ馴れしいとは違います。親しいとは相手を気にかけ、敬い、大切にすることです。一方、馴れ馴れしいとは自分のルールに基づいて、自分のペースで相手をコントロールしようとすることではないでしょうか。私たちは神との交わりにおいて、自分のルールを神に押し付けていないでしょうか。それでは、本当の親しさに近づくことはできません。それは、自分の思い通りになる神様を求めているだけです。

最後に、二つの問いかけをしたいと思います。①皆さんは、神に人生を明け渡していますか。神様は、私たちのためにすべてを捨てて、十字架にかかって下さいました。私たちは、それにどう応えるでしょうか。②神と真の親しさを築くために、必要なことは何でしょうか。そのために、今週何をしていく必要があるでしょうか。

 

天の父なる神様、みことばをありがとうございます。あなたの温かい御翼の陰に守られながら、今日まで人生を歩んできました。私たちはその愛に、どう応答すればよいでしょうか。主よ、私たち一人一人に具体的な導きを与えて下さい。神様、あなたに私たちの人生を明け渡します。そして、あなたからいつも喜びと愛をいただくことができますように。みことばと祈りから、あなたとの交わりを忘れないように助けて下さい。(20201018日礼拝 武田遣嗣牧師)