王を求めたイスラエル サムエル記第一8章1節~9節

【新改訳2017

Ⅰサム

8:1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。

8:2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤであった。彼らはベエル・シェバでさばきつかさをしていた。

8:3 しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。

8:4 イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、

8:5 彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

8:6 彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルは【主】に祈った。

8:7 【主】はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。

8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。

 

8:9 今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」

 8章は、第一サムエル記の中で特に重要な章です。なぜなら、8章を境に人間による王政が始まるからです。第一サムエル記17章の強調点は、神様はすべての上に立つ王だということです。例えば210のハンナの賛美では、人間の王に力を与えるお方をほめたたえています。また56章では、ペリシテ人の地で働かれる神様のことが書かれていますが、これは神様がイスラエルだけでなく、世界のすべての国を治める神様だということを表しています。

 さて、81の時点でイスラエルのリーダーは、さばきつかさと呼ばれる人でした。さばきつかさとは、神のみこころを行うリーダーのことです。例えば、士師記には12人のさばきつかさが登場し、時代に応じて神様の求めることに柔軟に対応しました。サムエルもさばきつかさで、色々な町を巡回して訪問し、人々を励まして、その町に正義が行われるようにさばきました(71517)。イスラエルにとって、さばきつかさが治めることが理想的だったのです。しかしサムエルは年をとり、息子たちは後継者に適任とは言えませんでした。この事態に、イスラエルは一体、どうすればよかったのでしょうか。それは、神様の応えを待ち望むことでした。神様は人に、沈黙の試練を与えることがあります(ヨブ記)。呼んでも応えていただけない時があります。この試練を通る時、本当に神様に信頼しているのか、別なものに頼っているのか、その人の素が表れてきます。イスラエルは次のさばきつかさが与えられない状況の中で、神様ではなく人間の王を求めてしまいました(45)。

それは一見筋の通った提案ですが、彼らは心では神様を拒絶していたのです(67)。

 しかし神様はこの提案を受け入れ、さらにダビデ王の子孫、ヨセフの家からイエス・キリストを誕生させました。神は自分を拒む者の祈りさえ、ないがしろにされないことがわかると思います。私たちも、自己中心で的外れなことを祈っているかもしれません。心で神様を拒んでいるかもしれません。しかし主は、そのような者の祈りをも聞いて下さるお方なのです。

 最後に、二つの結論をお話したいと思います。第一は、為政者のために祈る大切さです。私たちは、田舎の教会の信徒にすぎないかもしれません。しかし神様は全世界、全宇宙の王です。そして神様は私たちの不十分な、小さな祈りを確かに聞いて下さるお方です。これは私が先週の祈祷会で学んだことですが、世界各国の代表者や、各国で活躍する代表者、宣教師のために祈ることは、私たちの視点を高く、広くもつことだということです。彼らのために祈ることで、全世界を治める神様に目が向いていくのではないでしょうか。第二は、王なる神様の深い愛です。8章は、イスラエルがとても平和な時でした。しかし平和な毎日の中でイスラエルは強欲になり、他の国々のように人間の王が欲しいと訴えました。この訴えにより、神様は拒絶され傷つけられました。しかし神様は人間の王を与えられました。拒絶されてもなお与える、神様は歴史の中で人々を愛し続けて下さったお方です。そして2000年前、愛する御子イエス・キリストをも私たちのために与えて下さいました。イエス様も拒絶され、十字架にかけられました。そしてその十字架には、馬鹿にするように「ユダヤ人の王」という看板が掲げられました。王なる神様がここにいる一人一人のためにご自身イエス・キリストをささげられた、この方を信じれば私たちの罪はゆるされ、神のこどもになることができる、これは聖書が語っている福音です。私たちは、この愛にどう応えるでしょうか。

 天の父なる神様、御名を崇め、讃美いたします。あなたは、この世界を創造された王でしたが、2000年前、身を低くして臭い飼葉桶の中に生まれて下さいました。それは、私たちを愛していて、また私たちを罪から救い出したいという思いからでした。この世界を治めている神様は、私たちを罰したいと思っている神ではありません。また、私たちに興味のない神様ではありません。私たちを愛し、私たちのために生きて下さった王なる神様です。主よ、どうぞ、ここにいる一人一人と今週も共にいて、愛を与え続けて下さい。また、あなたが立てられたリーダーのために祈ることができますように、祈る心を与えて下さい。

 

2020111日礼拝 武田遣嗣牧師)