高齢者の叫びに聴く 詩篇71篇9~14節

【新改訳2017

71:9 年老いたときも私を見放さないでください。私の力が衰え果てても見捨てないでください。

71:10 私の敵は私のことを相談し私のいのちを狙う者がともに企みます。

71:11 彼らは言っています。「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて彼を捕らえよ。救い出す者はいないから。」

71:12 神よ私から遠く離れないでください。わが神よ急いで私を助けてください。

71:13 私をなじる者どもが恥を見て消え失せますように。私を痛めつけようとする者どもが恥辱と恥でおおわれますように。

71:14 しかし私は絶えずあなたを待ち望みいよいよ切にあなたを賛美します。

71:15 私の口は絶えず語り告げます。あなたの義と救いとを。そのすべてを私は知っておりませんが。

71:16 【神】である主よ私はあなたの力とともに行きます。あなたのただあなたの義だけを心に留めて。

71:17 神よあなたは私の若いころから私を教えてくださいました。私は今なおあなたの奇しいみわざを告げ知らせています。

71:18 年老いて白髪頭になったとしても神よ私を捨てないでください。私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。あなたの大能のみわざを後に来るすべての者に。

71:19 神よあなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よだれがあなたのようでしょう。

71:20 あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが私を再び生き返らせ地の深みから再び引き上げてくださいます。

71:21 あなたが私の偉大さを増し振り向いて私を慰めてくださいますように。

71:22 私もまた琴であなたをほめたたえます。わが神よあなたの真実を。私は竪琴に合わせてあなたにほめ歌を歌います。イスラエルの聖なる方よ。

71:23 私があなたにほめ歌を歌うとき私の唇は高らかに歌います。あなたが贖い出された私のたましいも。

 

71:24 私の舌も絶えずあなたの義を告げます。私のわざわいを求める者どもが恥を見て屈辱を受けるからです。

 導入 

おはようございます。東京基督教大学の井上と申します。東京基督教大学は、福音的信仰に立つ日本で唯一の神学大学で、牧師を養成する伝統がありますが、同時に福祉や国際分野、などあらゆる領域に世の光、地の塩として活躍するクリスチャンを輩出しています。

武田先生ご夫妻は、本学の卒業生であり、私の故郷であるこの茨城県内で牧会をされているということで、一度ご挨拶にいかなくてはと思い、昨年の1111日、ちょうど1年くらい前にこの教会を訪れました。今回は、このようなお招きをいただき、再び訪れることができたこと、そして今皆様と共に主を礼拝する時を共にできますことを心から感謝いたしております。

さて、本日のメッセージは「高齢者の叫びに聴く」という題をつけさせていただきました。古今東西の世界中で多くの人が、不老長寿を願い、寿命を延ばすこと、死を遠ざけることに英知を注いできました。日本は、医学の進歩の恩恵にも預かり、世界トップの長寿社会となりました。戦後10年くらいまでは平均年齢が60にも届かないくらいでしたので、実はそれから20年、いや25年も超えての長命となり、現在は、人生100年時代と言われるようになりました。

しかしながら、長寿=幸福といえない苦難が次々と襲いかかる危機も期間も長くなりました。歳を取りことを手ばなしでは、喜べない時代でもあるわけです。

この老年期の危機は、2500年も昔の旧約聖書の時代でも同様であったようです。どんなに科学技術が進歩しても、避けることができない老年期の高齢者の叫びに、私たちはどう向き合えばいいのでしょうか。今朝は、そうした危機にある老年期の高齢者の心の奥底の声を聴くことの大切さという観点から、聖書の神様のメッセージを受け取りたいと思います。

 

1.老いた信仰者の叫び

 本日の聖書個所をもう一度お読みします。この詩篇71篇は、ヘブライ語の聖書がギリシャ語に翻訳された時に、「ダビデによる。ヨナダブの子らと最初に捕囚になった者たちによって歌われた詩篇」という意味の表題がつけられていたそうです。ですので、作者はエレミヤという説もあります。が、ヨナダブという人はダビデの甥っ子でもあったので、大元はダビデの作の詩篇と考えられています。ダビデの賛歌として知られる詩篇22編には、「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とありますが、詩篇22編のモチーフを、この71篇も繰り返していると言われ、伝統的に受難週に読まれる礼拝式文にも、結びつけられてきました。

詩篇71篇の特徴は、老いて衰えゆくことの恥や痛みを嘆きつつも、神に助けを叫び求め、その豊かな経験から強い神への信頼を現わし、神を賛美し、見事な希望を汲み取っていることにあります。

 目がかすみ、耳が遠くなり、足腰は弱くなり、記憶や判断能力、気力までもが衰える。それまで獲得してきた地位や経済的基盤、社会での役割やつながりが崩れ、仲間や配偶者を失う。老いはそうした喪失の連続です。だれもが老いて行くときに、不安を覚え、憂いや痛みを経験します。詩人は、神への信仰をもつがゆえに、その憂いと痛みは、正直でまっすぐな神への叫びと祈りとなりました。そして、そうした時に、自分のいのちを脅かす敵がいたこと、そして、その敵が「神はお前を捨てたのだ」と詩人の信仰を根底から揺さぶったゆえに、最大の信仰の危機にも陥りました。

 

2.老いた信仰者の賛美と告白

 老いて、いのちと生活に憂いと痛みが襲い、神との関係さえも揺り動かされそうな時に、

信仰者に与えられるめぐみは、その真価を発揮します。神への信仰と賛美を告白した詩人は、この71篇の後半において、過去のめぐみをふり返り、自分の生涯の中に現された奇跡とも呼べる神のみわざを次の世代に告げ知らせようとします。

 

 その71篇後半の1517節を味わってみましょう。

15"私の口は絶えず語り告げます。あなたの義と救いとを。そのすべてを私は知っており

ませんが。

16:神である主よ 私はあなたの力とともに行きます。あなたのただあなたの義だけを心に留めて。

17:神よあなたは私の若いころから私を教えてくださいました。私は今なおあなたの奇しいみわざを告げ知らせています。"

詩篇 711517                                                                                                          

 

叫びを聴き、その叫びに応えて下さるという神への信頼は、ほとばしるような情熱と賛美になって、さらなる信仰の高嶺というめぐみに、老いた信仰者を導いているのです。

 

その秘訣は、詩人が若い時から、神に希望をおき、神を人生のよりどころし、試練に会う時にも、神に叫び求めれば、神がその叫びを聞いて下さるという神への信頼が培われていたからでした。

 

ダビデが若い時に、サウル王にいのちを狙われ、逃亡生活をしていた時の詩篇18篇6節ではこう言っています。

 

"私は苦しみの中で主を呼び求め わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ御

前への叫びは御耳に届いた。"   詩篇 186

 

 ダビデは、若い時にサウルにいのちを狙われ、ある時にはイスラエルの敵国に入って気が狂ったようなフリをして、生き延びたこともありました。そのくらい、若い時から肉体的に精神的にまた霊的にも追い詰められ、絶体絶命の苦境を経験していたダビデだからこそ、この人生晩年に差し掛かるときに、このような神への信頼と賛美の告白が生まれたのです。信仰者の老いへ備えとは、まさに若い時に直面する苦労や困難の中でもそこでどのように神との関係を築いていくのかということから始まっているともいえましょう。

 

3.神なき老後の惨状

 しかし、しかしです。この詩篇の詩人を襲ったような老後の憂いと痛み、自分の人生観を根底から揺るがすような危機に、救い出す神がいない、あるいはそのような神を知らない、としたらどうでしょう。

それまで頼っていたものを失い、あるいは頼っていた者から裏切られ、老いて社会から、

あるいは身近な家族からも見捨てられるような経験をし、嘆きと憂いと恥と痛みの中で声にならない叫びを発している高齢者が世の中にはたくさんいるのです。

 どうして、なぜこんなことが?

長く、高齢者の介護の現場にいた私は、そのような厳しい現実に数えきれないくらい直面してきました。

 

寝たきりで認知症であるのに、ベッドの傍らに乾いたパンだけを置かれて日中置き去りにされてしまう方。

 

病気が進んでいるのに周囲から疎まれて病院に連れていってもらうこともできない方、

それまでの自分の人生を嘆いて周囲に不満と恨みをまき散らし、さらに孤独の闇の淵へと自分を追いやってしまう方。

 

次々と高額な布団や薬をだまされて買わされ、年金があるのに、多額な借金を抱えて苦しむ方などなどです。

 

目の前で認知症の母親の言動に突然切れた息子が、こぶしを振り上げて殴りかかろうとしたところに必死に止めた経験をしたこともありました。教会の交わりや家族の交わりが麗しい程、一般の世の中の惨状は目をおおうばかりです。

 

マザー・テレサは、「最大の不幸は、貧困でなくて、だれからも必要とされなくなることであり、愛の反対は無関心だ」と言いました。豊かになった今日の日本において、老年期になって人生に絶望し、早くお迎えが来ることだけに望みを託すしかないという高齢者の心象風景に出会うと胸が痛みます。

 そのような老年期の危機に直面している方に、どう接していけばいいのでしょうか。もちろん、その重荷を下ろせる唯一の救い主を紹介するということが確信ですが、それは口先だけでは受け止めていただけません。愛と思いやりをもって、痛み嘆く人に仕えるという姿勢が必要になります。そして、その第一歩は私たちの耳を高齢者の心の叫びに耳を傾けることです。

 

4.高齢者の叫びにどう聴くか

 それでは、嘆きと痛みと自責の念に苦しむ高齢者の叫びをどうしたら真に聴くことができるのでしょうか。

傾聴を意味する「きく」には、二種類の「聞く」と「聴く」という二種類の漢字がありますが、英語にもhearlistenの二種類があります。前者は、自然にそのまま音として聞こえてくることを察知すること、後者は、心を済ませて集中して聴く、音以外のニュアンスや感情も受け止めるイメージの違いがあります。積極的傾聴は、英語でactive listeningといにいいますが、私たちは、きちんと聴いているつもりが、いつの間にかlistenでなく、 hearになってしまうものです。

なぜでしょう。それは、先入観が働いたり、他のことが気になって様々な雑音が入るからです。高齢者の方の場合、超高齢の方であったり、認知症があったりすると、話題があちこちに飛んだり、具体性がなかったり、つじつまが合わなかったり、同じ話が繰り返されたり、しゃべり始まったら延々と終わらないということがあります。慣れないと相当に忍耐を要求されるかもしれません。そうなると、「あ、また同じ話だし、何を言っているのかわからない」と断定してしまい、自分の心の声が雑音になって相手の心の声が聞こえなくなるのです。listenでなく、 hearになってしまい、形だけふんふんとうなずきながく、かたちだけの傾聴になってしまうのです。

 

こんなエピソードがあります。

ある町の助役をしていたIさんという方がいました。60代前半でしたがが、5年ほど町の行事のスピーチ原稿が作れなくなり、物忘れも増え、日付もわからなくなりました。診療内科を受診するとアルツハイマー型認知症の診断でした。仕事は退職しましたが、その後どんどん認知症は進行し、1年ほど前から非常に怒りっぽくなりました。時に、奥様に暴言や暴力さえ出るようになりました。

認知症専門の病院に行き、精神安定剤などをもらいましたが、さっぱり効かなかったそうです。ところが、ある時、市民オンブズマンがIさんに町の行政改革について意見を聴きに来ました。オンブズマンというのは、問題を抱えた市民に代わって苦情を調査し、必要な場合には、行政サービスの内容を是正するよう勧告したりする人です。そのオンブズマンの方は、Iさんの病気のことをよく知らないままに、市の行政問題について相談すると、Iさんはそれに自分の意見を堂々と述べ、オンブズマンの方は、真剣になるほどとうなずきながらのその話を聞いたそうです。するとどうでしょう。その日は、ぴたっと穏やかになって就寝するまでいつもの暴言や暴力も出なかったそうです。

なぜでしょうか。認知症になって退職したとたんに、自分を見る周囲の態度が変化し、医師や家族から助言や指示を受ける回数が増え、Iさん自身は自信を無くし、深く傷つき、疎外感や孤独感を持つようになっていたのです。Iさんの奥さんもよかれと思って、先に先に心配して注意をしてしまうようになり、Iさんはいつもバカにされている、叱られると感じてしまい、それが心の痛みとなり、怒りのエネルギーのなっていたのです。病気のことを知らなかった市民オンブズマンが、先入観なく、町の助役として長年活躍していたIさんに尊敬の念をもって接し、Iさんの声に一生懸命に耳を傾けたことで、Iさんは自分をだれかに認めて欲しいという心の声も聴いてもらえた、という満足が与え、穏やかさを取り戻せたのでしょう。

 

 このエピソードが教えるのは、福祉や介護の専門家になれば傾聴ができる、というものではないということです。専門家になれば、知識も経験も豊富にはなります。しかし、そのことと、傾聴ができることが比例するわけではありません。かえって、そうした知識や経験が先入観を作り出し、その人の本当の声を聞こえなくさせることもあります。かくいう、私も高齢者と方々のケアを仕事に長く携わりながら、なかなかできていなかったなと反省します。そのことを痛く考えさせられた詩があります。少し、長いのですが、介護福祉士のテキストにも掲載されていましたので紹介したいと思います。

 

オランダのあるソーシャルワーカーの詩

・話を聴いて欲しいと言っているのに、アドバイスをし始めるあなたは、

わたしがお願いしたいことをしていない

 

話を聴いて欲しいと言っているのに、そのように思わない方がよろしいですよと

話し出すあなたは、私の心に届かない

 

・話を聴いてというと

私の問題を解決するために何かをしなくてはならないと思うあなた

ひとりよがりに聴こえるかもしれないけれど、そんなあなたに少しがっかりしてしまう

 

・私がお願いしたいことは、耳を傾けてくれることであり、話すことでも何かをすることでもありません。私の声と話を通して私を聴いてくれること、ただそれだけです。

 

・たとえどんなに理屈に合わなくとも、実際にわたしが感じているものであるということを事実として、そのまま受け止めてください。

 

・そうしてくれれば、

あなたを納得させようとするのを止めて、

この自分でもわからない思いの底に、いったい何があるのか、

見てみることにとりかかれます。

 

そして、自分で分かったら、答えは確かであり、アドバイスを必要とはしません。

 

・だからお願いです

耳を傾け、私の声と話を聴いて

もしあなたが話したくなったら、あなたの番までちょっと待って。

その時には、私があなたの話に耳を傾けたい

 

せっかちな私は、聴くというのは、こんなにも深いものだといつも考えさせられました。この詩は、福祉の援助者であるソーシャルワーカーがまさに自分が援助している方から受け取り、学ばされたことを詩にしたと思われますが、特に、「私の声と話を通して私を聴いて」という訴えは深くつきささります。

 

傾聴とは、単に言語という音の組合せを聴くのでない、その人の人生の物語、その人自身、その物語を紡いでいて下さる創造主のみわざに耳を傾けてという全人格的なものであると教えられます。

 

 たとえ、からだが不自由でも、認知症が進んでいると周囲がみても、その人を受け入れ、聴こうとする時に、その心の声を聴くことができます。また、その時に、私たちはその人への愛が試されます。また、私たちに無限の愛を注いでいる神様への信仰が試され、訓練されると言っても良いでしょう。そして、傾聴を通して、感情を共感・共有できた時に、不安を抱える人が自分を客観視できるようになって問題解決の糸口が発見でき、痛んだ心がいやされていきます。

 

戦前のドイツ、ナチス政権下で非業の死を遂げたボンヘッファーという有名な神学者が「共に生きる生活」という著書の中でこんな言葉を遺してします。

 

 神がわたしたちに、その言葉を与えて下さるだけでなく、私たちにその耳をも貸して下さるということは、私たちに対する神の愛である。だから、もし私たちが兄弟のために傾聴することを学ぶなら、わたしたちが兄弟に対してすることは、神のわざである。

                      (「共に生きる生活」120頁)

 

 私たちは、神の前に静まり、神様のかすかな細き御声も集中して聴こうします。神は、そんな私に語りかけて下さるだけでなく、こんなちっぽけな私の声にも、声にならない心の叫びも神ご自身が全集中で耳を澄ませてくださるというのです。

 

今、「鬼滅の刃」というアニメ映画が世の中に大ヒットして、「全集中の呼吸」というアニメの主人公の決めセリフが国会で引用されるくらい流行っています。ですが、私たちクリスチャンにとっては「祈り」が呼吸ですね。まさに、日々の神様との交わりは、「全集中 霊の呼吸」ではないでしょうか。そして、神の語りかけを聴き、神が私たちの祈りを聴いて下さる。これ以上に、私たちを励まし、慰め、力づけるものは、この世に存在しません。そのように、兄弟姉妹に、隣人にも耳を傾けるという愛のわざにもするようにとボンヘッファーは勧めてくれています。

 

結び

最後に、詩篇71篇に戻って、20節の詩人の神への信頼の言葉に耳を傾けてみましょう。

 

20"あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが

私を再び生き返らせ 地の深みから再び引き上げてくださいます。

 

このように、苦しみと悩みに遭遇した人生に、地の深みから引きあげて下さる神を見いだすことができるところ、それは、イエス・キリストの教会なのです。

 

さらに、21節では詩人はこうもいうのです。

 

あなたが私の偉大さを増し振り向いて私を慰めてくださいますように。"

詩篇 7121

 

若く壮健な時に、自分の健康に自信があり、自分の役職や実績、能力を示せる間は、多くの人が自分に関心を向け、ふり向いてくれました。しかし、体が衰え、地位も権力も財も失った時に、この世の中で自分をふり向いてくれる人は極端に少なくなります。

しかし、詩人は、神ご自身が高齢者の長い人生の苦労も、苦闘も、振り向いて慰めて下さる方、生きてきた意味と価値を与えて下さる方であると信仰をもって希望を告白しているのです。主イエスさまが私の過去も、今も、慰めに満ちた愛のまなざしでふり向いて見ていて下さる。たとえ、だれも自分に見向きもしない孤独な状況に陥ったとしても、その主イエス様のまなざし、ほほえみを感じるだけで、私たちには生きる勇気と希望が沸いてくるのです。

 

高齢者の憂いや痛みを聴き、受け止め、キリストにある交わりの希望、喜びが教会から地域社会へと発信され、伝播されていく。私たちひとりひとりもそのために活かされ、用いられるものでありたいと願います。

 

 

祈り

天の父なる神様 御名をあがめて賛美します。

私たち一人一人に語りかけ、全存在をかけて私たちの心の叫びにも耳を傾けて下さる主よ。感謝します。

そのあなたのご愛に押し出され、耳を傾けるという愛の奉仕へと私たちをも用いてください。

 

 イエス・キリストの名によってお祈りします。

 

 

 

☆ 本日はオープンチャペルで、東京基督教大学准教授の井上貴詞先生に説教をしていただきました。