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起きよ。かがやけ。 イザヤ書60章1~5節

【新改訳2017

イザ

[ 60 ]

60:1 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。【主】の栄光があなたの上に輝く。

60:2 見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には【主】が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。

60:3 国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

60:4 目を上げて、あたりを見渡せ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来る。娘たちは脇に抱かれながら。

 

60:5 そのとき、あなたはこれを見て晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。それは、海の富があなたのところに移され、国々の財宝もあなたのもとに来るからだ。

光とはイエスキリスト(12)

 新しい一年を皆さんと共に始めることのできる恵みを主に感謝します。今日はイザヤ書6017節の御言葉に聞きましょう。1節をお読みください。

「起きよ。輝け。 まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。

本日の箇所は「起きよ。輝け。」この力強い御言葉から始まります。新しい一年、皆さんが家庭や仕事場、教会で輝けることを願っています。この聖句における「輝け!」は、皆さん自身の力で、輝けと命じているのではありません。この「輝け」の直後に「まことに、あなたの光が来る」と書かれています。あなたを照らすスポットライトのような光が来て、それによって私達が輝くと、ここでは命じられているのです。この光の正体こそ、イエスキリストです。このことは、今日読んでいる60章手前の59章を読むと、はっきり理解できます。5912節をお読みします。

1見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

 ここには神と人が罪によって、断絶していることが書かれています。罪とは神と人を離れさせる仕切りのようなものです。またこの罪こそが、私達が輝くことのできない最大の要因です。続いて592021節をお読みします。

20「しかし、シオンには贖い主として来る。 ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに。 ──主のことば。」 21  「これは、彼らと結ぶわたしの契約である

 贖い主とは、人を罪から救い出すものです。イエス様は私達の罪の身代わりとなり、信じる者を救い出す契約を結んでくださったのです。

このような59章からの流れがあって、60章の「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。」につながるのです。すなわち、イエスキリストこそ、私達の光です。新約聖書、ヨハネの福音書19節にはこのように書かれています。 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。イエス様は全てを照らす真の光です。私達は新年、このイエス様の光によって輝きたいと願うのです。もう年配者だし、輝くことはできないと考えるかもしれません。また自信を失っていて、輝くなんて考えもしなかったような方もおられるかもしれません。しかし私達の真の輝きは、年齢や自信から来るのではない、イエスキリストから来るのだとはっきり聖書は主張しているのです。

 

より輝くために (23)

さて光の正体がイエスであることを学びました。次にこのイエスの光を受けた者が、どうすればより輝くことができるのかをお話します。2節をお読みします。

2  見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。 3  国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

闇と暗黒が諸国の民を覆っているとあります。この暗闇という言葉は、罪の結果である悲しみ、破滅、暴力それらを包括したような言葉です。・・・・イエスの光を受けたものは、この「暗闇を照らす時」に、最も輝くのです。

「輝く」とは、周りに承認される、好かれるというイメージがあるかもしれません。自分のことを理解してくれている仲間、認めてくれる友達がいるところでのみ、輝けると思っておられる方もいるでしょう。

しかしイエス様の光が最も輝くのは、世間から無視され、悲しい、苦しい思いをしている人達のいるところです。そのような人達に関わることは骨が折れ、非効率なことです。しかし私達が受けているイエスの光は、暗闇を照らす時、その本領が発揮されるのです・・・

聖書はいつも喜んでいなさい。と命じつつ、心の貧しい者は幸いです。と述べています。クリスチャンとしての歩みは、イエス様によって、救われたことを喜びつつ、世界の暗黒から、悲しみから目を背けないことなのかもしれません。戦争や地震、コロナのような疫病、また私達の周りにいる悲しんでいる人、問題のあるように見える人。私達の周りには暗闇と、そこに住む人達がいるのではないでしょうか。イエス様の光はそういうところで輝きをましていくのです。

 私達の光であるイエスについて、イザヤ書は他のどんな旧約聖書の書簡よりも、明確に語っています。まずイザヤ書96節です。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。イザヤ書には救い主が小さな赤ん坊の姿で生まれることが書かれています。赤ん坊ですから弱く見えるのですが、私達に御言葉を与える助言者であり、力ある神であり、永遠の父、平和の君であると書かれています。神様は力強いお方でした。しかし弱い赤ん坊の姿で、私達のために降りてきてくださったのです。もしも私達がへりくだり、暗闇の中にいる人に手を伸ばし続けるなら、イエスの光を受けているものとして、ふさわしいといえるかもしれません。続いてイザヤ書5346節をお読みします。

4  まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 イザヤ書はイエス様が生まれる800年も前の書物ですが、イエス様の十字架を鮮明な表現で描いています。イエス様は私達を救うために、病を負い、痛みを担われました。主は輝かしい天国から、この痛み悲しみのあるところに降りてこられたのです。

私達はこのイエスの光を受けているのですから、暗闇に無関心であって良いはずがありません。私達には認められ、笑い合える場所も必要でしょう。しかし時にイエス様のように暗闇に降りていき、そこで輝くものでありたいと思うのです。

 

結論→世の光として、神と共に歩む

 

そろそろまとめに入ります。マタイの福音書51416節を読んでみましょう。

14  あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。 15  また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。 16  このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 神様を信じる者を、聖書は世の光と呼んでいます。しかし信じる者が世の光であるゆえんは、イエス様が信じる者を輝かせてくださるからです。私達の努力のみで光を発することはできません。それを考える時、私達はこの一年、神様との交わり、コミュニケーションを大切にする一年にしたいなと思います。

長年の信仰生活で、聖書の知識は沢山あるけど、日々御言葉を読み、祈る時間を大切にできていない方もいらっしゃるかもしれません。

 信仰は知識だけでは決して測れません。聖書の研究者であっても、信仰をもっていない人もいるからです。知識だけではなく、神様との関係性で信仰を捉えましょう。一日一日イエス様の御言葉を聞き、祈りましょう。そしてイエス様の光を受け、その光を暗闇にいる人達へ注ぐような一年を過ごしていきましょう。一言お祈りします。

 

 

 私達の愛する神様、御言葉をありがとうございます。主は私達のために人間として降りてこられ、神と人の間にある罪の仕切りを取り除いてくださいました。私達が神との愛の関係を求めるなら、あなたは私達を見捨てはしません。その大きな大きな愛と恵みを感じつつ、この一年を主と共に歩むことができますように。私達の信仰生活を助けてください。イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン。