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苦難の中の祈り サムエル記第二15章1~23節

【新改訳2017】

Ⅱサム

15:1 その後、アブサロムは自分のために戦車と馬、そして自分の前に走る者五十人を手に入れた。

15:2 アブサロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者がいると、アブサロムは、その一人ひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です」と答えると、

15:3 アブサロムは彼に、「聞きなさい。あなたの訴えは良いし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」と言っていた。

15:4 さらにアブサロムは、「だれか私をこの国のさばき人に立ててくれないだろうか。訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」と言っていた。

15:5 人が彼に近づいてひれ伏そうとすると、彼は手を伸ばし、その人を抱いて口づけしていた。

15:6 アブサロムは、さばきのために王のところにやって来る、すべてのイスラエルの人にこのようにした。アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ。

15:7 四年たって、アブサロムは王に言った。「私が【主】に立てた誓願を果たすために、どうか私をヘブロンに行かせてください。

15:8 このしもべは、アラムのゲシュルにいたときに、『もし【主】が私を本当にエルサレムに連れ帰ってくださるなら、私は【主】に仕えます』と言って誓願を立てたのです。」

15:9 王は言った。「安心して行って来なさい。」彼は立って、ヘブロンに行った。

15:10 アブサロムはイスラエルの全部族に、ひそかに人を遣わして言った。「角笛が鳴るのを聞いたら、『アブサロムがヘブロンで王になった』と言いなさい。」

15:11 アブサロムとともに、二百人の人々がエルサレムを出て行った。その人たちは、ただ単に招かれて行った者たちで、何も知らなかった。

15:12 アブサロムは、いけにえを献げている間に、人を遣わして、ダビデの助言者ギロ人アヒトフェルを、彼の町ギロから呼び寄せた。この謀反は強く、アブサロムにくみする民が多くなった。

15:13 ダビデのところに告げる者が来て、「イスラエルの人々の心はアブサロムになびいています」と言った。

15:14 ダビデは、自分とともにエルサレムにいる家来全員に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブサロムから逃れる者はいなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの都を討つといけないから。」

15:15 王の家来たちは王に言った。「ご覧ください。私たち、あなたのしもべどもは、王様の選ばれるままにいたします。」

15:16 王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。しかし王は、王宮の留守番に十人の側女を残した。

15:17 王と、王に従うすべての民は、出て行って町外れの家にとどまった。

15:18 王のすべての家来は王の傍らを進み、すべてのクレタ人と、すべてのペレテ人、そしてガテから王について来た六百人のガテ人がみな、王の前を進んだ。

15:19 王はガテ人イタイに言った。「どうして、あなたもわれわれと一緒に行くのか。戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは異国人で、自分の国からの亡命者なのだから。

15:20 あなたは昨日来たばかりなのに、今日、あなたをわれわれと一緒にさまよわせるのは忍びない。私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから。あなたの兄弟を連れて戻りなさい。恵みとまことがあなたとともにあるように。」

15:21 イタイは王に答えて言った。「【主】は生きておられます。そして、王様も生きておられます。王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」

15:22 ダビデはイタイに言った。「では、進んで行きなさい。」ガテ人イタイは、彼の部下全員と、一緒にいた子どもたち全員を連れて、進んで行った。

15:23 この民がみな進んで行くとき、国中は大きな声をあげて泣いた。王はキデロンの谷を渡り、この民もみな、荒野の方へ渡って行った。

2021年 117日 (「阪神淡路大震災」を覚えて祈る日)

 

旧約聖書はアブラハムを信仰の祖とするイスラエル民族の歴史を通して、この天地万物の創造主である神が「人を救う」とはどういう事かを見せてくれます。

そこでは、全能の神でありきよい神であり正義の神、公正の神、真実なる神が実は一国の王の様に、その民を慈しみ養い育て助け、その国・民を導いておられる様子も分ります。

ですので、イスラエル民族を「神の民」と呼び、これは新約聖書にあるイエス・キリストを救い主と信じ従うクリスチャンを「神の民」と呼ぶ事とほぼ同じです。それ故、聖書(旧約聖書も新約聖書も)は、「神を信じる」とはどういう事か? その信仰の内容である「神との内的関係」とは? 信仰のかたちとしての「信じる者の礼拝のあり方」や「礼拝で仕える祭司・レビ人のあり方」とは? 等を問い掛けています。

更には、「神を信じて生きるとはどういう事か?」をも問い掛けています。それは、神を信じる者の「生活のあり方」~人間関係・夫婦親子家族関係・社会のあり方、商売のあり方、農業のあり方までも~をも含みます。

 

そういう意味では、旧約聖書はそこに登場する人物達の人生において、どの様にして「神を信じて生きたか」を記録としても記しています。大勢の信仰者達の記録がある中で、「信仰の父アブラハム」「ヘブル人の解放者モーセ」「カナン定着の為の戦いの将ヨシュア」「イスラエル民族の真の偉大なる預言者サムエル」「イスラエル国家の基を築いたダビデ王」「救い主イエスの全生涯を預言したイザヤ」「真実の預言者エレミヤ」等の信仰の歩みとその言葉は非常に重要です。

今回は、イスラエルの建国の父等と呼ばれる「ダビデ王」を取り上げ、特に、現在の私たちの状況がそうであるように、ダビデ王による「苦難の中の祈り」を学び、自分の祈りや私たちの祈りを改めて聖書により高められたいと願います。

 

サムエル記第二は、初代王サウルから逃れつつも、神の特別な導きにより軍団の将であったダビデ将軍がユダの地ヘブロンにおいてユダ部族の王となり、その後、サウル王が戦いで亡くなりイスラエル国内が混乱に陥りつつあった際に、神と民に信任された正統な王となり、良い統治を進めていく物語です。現在でも、イスラエル共和国はその国旗に「ダビデの星」と呼ばれる三角形を二つ並べた星形のシンボルを使っており、正に「建国の父」としてダビデを崇めている程です。

30歳で王となり、祖国イスラエルを豊かで安定した国となしたダビデ王。その40年間の統治はその子ソロモン以降のダビデ家に受け継がれていきます。大成功を収めた聖書中ピカイチの信仰者、それがダビデでした。

しかし、順風満帆の様に見えるダビデの生涯は、いつも困難と隣り合わせであった事も事実です。そこには、周辺諸国との絶えざる戦い、イスラエル国民の真実なる神信仰から外れていこうとする内的信仰的戦い、王国内政治家の様々な野望不正との戦い、王家ダビデ家内の争いや不和、そして、ダビデ自身の中にある罪との戦いがあり、全ての事に完全な勝利を得られた訳ではありませんでした。ダビデは何度も失敗しつつ、その都度神に立ち返り、神のゆるしの中でその生涯を全う出来たのでした。

 

本日の聖書箇所、サムエル記第二15章は、ダビデがその愛する息子アブサロムに謀反を起こされ、首都エルサレムから命からがら逃げて行く、という場面で、この時60歳程の円熟した王となっていたダビデは、大いに恥をかき惨めで屈辱的な状況に追い込まれていきました。15章30節には「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った。彼と一緒にいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。」とあり、かの大将軍ダビデの名が地に落ちてしまい兼ねない一瞬でした。世の中判らないものです。

実はダビデ王、野に出て態勢を立て直し、改めて謀反を収めようとしたのでした。ダビデもその部下達も連戦錬磨の猛者ばかりでしたので、経験の浅いアブサロムはアッと言う間に逆転され、その戦で死んでしまいます。しかし、「謀反者アブサロムの死」の知らせを受けたダビデの態度は、彼の部下達を混乱させてしまう程のものでした。18章33節には「王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。』」と記載され、王としてではなく、一人の父親としての深い悲しみ、身体を八つ裂きにされる程の辛さを経験します。

 

ダビデはこの時、どの様に祈り、そして、どの様にこの屈辱的で、悲しくて、辛い時を通過出来たのでしょうか?

サムエル記第二22章の「ダビデの詩」にそのヒントが記載されています。この詩の説明句に「サウルの手から救い出された日に」とありますが、おそらくその事も含め、自分自身の全生涯を振り返りながら、自分が「神の救い」を幾度も体験させられた事を想い起こしつつ記したものと思われます。是非、この22章全体を読んでみて下さい。非常に味わい深い詩です。

 

中心は7節です。「私は苦しみの中で主を呼び求め、  わが神に叫んだ。

            主はその宮で私の声を聞かれ、   私の叫びは御耳に届いた。」

八方塞がりでどこにも助けを求められない時、天は開いており、人は神に祈る事が出来る。ダビデもその様な苦しみの中で神に叫びました、祈りました。確かに聖書の神は祈りを聞いて下さる神です。しかし、ここで絶対に忘れてはならない事は、「神に助けを」求めた、とは書かれておらず、「神を」求めたと記されている点です。

新約聖書・ローマ人への手紙3章10~11節「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。」とあり、人は全くの罪人であり自分勝手な存在である事を告発しています。そうなのです。私たち人間は祈りにおいてですら罪深く自分勝手なのです。神はそのような者を、「神を呼び求め」る事が出来る者へと変えて下さる、という恵みがここにあります。

 

そして、「主を呼び求め」る祈りを祈る者と変えられた者に対して、この22章20節にあるようなダビデと同じ経験を与えて下さるのではないでしょうか。「主は私を広いところに連れ出し、 私を助けだされました。 主が私を喜びとされたからです。」

 

神の助けがあるのですが、それは「私を広いところに連れ出し」という対応でなされました。それは、第一に「敵のいない広いところ」に連れ出して助けて下さった、という意味であり、第二に「これまで見た事のない広い視野・世界たるところ」に連れ出し、結果として見方が変わり世界が変わり、これまでの問題が問題ではなくなり、助けられた、という意味です。感謝ですね。(勝田聖書教会 吉永輝次牧師)

 

☆ 本日は勝田聖書教会との講壇交換として、吉永輝次牧師にメッセージを取り次いでいただきました。