· 

悔い改めの先は光 サムエル記第一12章7~17節

【新改訳2017】

Ⅰサム

12:7 「さあ、立ちなさい。私は、【主】があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざを、【主】の前であなたがたに説き明かそう。

12:8 ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は【主】に叫んだ。【主】はモーセとアロンを遣わし、彼らはあなたがたの先祖をエジプトから導き出し、この場所に住まわせた。

12:9 しかし、先祖たちは自分たちの神、【主】を忘れたので、主は彼らをハツォルの軍の長シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで先祖たちは彼らと戦うことになったのだ。

12:10 先祖たちは【主】に叫んで、『私たちは【主】を捨て、バアルやアシュタロテの神々に仕えて罪を犯しました。今、私たちがあなたに仕えるため、敵の手から救い出してください』と言った。

12:11 すると【主】は、エルバアルとバラクとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それで、あなたがたは安らかに住んだのだ。

12:12 しかし、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、【主】があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めるのだ』と私に言った。

12:13 今、見なさい。あなたがたが求め、選んだ王だ。見なさい。【主】はあなたがたの上に王を置かれた。

12:14 もし、あなたがたが【主】を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、【主】の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、【主】の後に従うなら、それでよい。

12:15 しかし、もし、あなたがたが【主】の御声に聞き従わず、【主】の命令に逆らうなら、【主】の手が、あなたがたとあなたがたの先祖の上に下る。

12:16 今、しっかり立って、【主】があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。

12:17 今は小麦の刈り入れ時ではないか。【主】が雷と雨を下されるようにと、私は主を呼び求める。あなたがたは王を求めることで、【主】の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい。」

 サムエルは今日の箇所で、イスラエルの先祖の罪(711)と、現在のイスラエルの罪(1217)を語ります。そして人の罪の性質は今も昔も変わらない、あなたにも罪があるのではないか、と目の前にいる人々に悔い改めを要求します。

 神様はモーセを遣わし、奴隷状態だったイスラエルをエジプトから解放しました(8)。しかし、イスラエルは自分たちの神、主を忘れたため、20年間もハツォルの900台もの戦車に怯え、ペリシテ人の支配下では、鉄の武器でいつ殺されるかわからない状態でした。またモアブの支配下では、あらゆるものを取り上げられました。イスラエルの先祖が神様を忘れることによって様々なものを失ったように、罪は私たちから良いものを奪い取って、私たちに喪失体験を味合わせます。しかし神様は喪失の悲しみの中に、祝福や慰めが隠されていると教えています(悲しむ人は幸いです。その人たちは慰められるから)。

そしてこの悲しみの先に二つの道があります。一つは憤りの道(神様がいるなら、なぜこんなに悲しい人生なのかと憤って、信仰さえ失ってしまう)です。もう一つは悔い改めの道(悲しみの責任の一端が自分の罪にあることを認め、悔い改める)です。イスラエルは多くのものを失った中で、神様を求め、神様は彼らの叫びを聞かれて、彼らを救い出されました(1011)。信仰者として生きるとは、無理矢理感謝することではありません。悲しんでもいいのです。神様は喪失の悲しみをよく知っておられる方です。神様は罪によって人間との関係を失われました。あれほど愛されていたのに、人は神を忘れるようになってしまいました。神様の喪失の痛みはどれほどだったでしょうか。私たちは、この喪失の痛みを知っておられる神様に、自らの悲しみを慰められ、悔い改めの道を進んでいくことができます。

さて、12節からは現在のイスラエルの罪について書かれています。この頃、イスラエルは強大な敵に怯えていたわけではありませんでした。但し、神様を忘れているという点で、先祖のイスラエルと同じでした。彼らはアンモン人の王を見て、自分たちも神ではなく人間の王が欲しいと思ったのです。サムエルは「主」ということばを何度も繰り返して、イスラエルに悔い改めを迫りました(1415)。

「小麦の刈り入れ時」(17)とは、イスラエルでは56月頃です。イスラエルでは3月から9月までの半年間は、雨が全く降らないそうです。ですから、小麦の刈り入れ時に雨が降るということは、まずあり得ません。しかしサムエルが神様に呼び求めた時、神様は雷と雨を下されました(18)。そして神様を忘れていた人々は、再び神様に立ち返ることになります。

最後に「福音」についてお話します。人は罪によって神様を忘れてしまいます。罪とは、神と人を離れさせ、忘れさせるものです。罪をそのままにしておくと、その結末は死である、と聖書に書かれています。死には肉体的な死だけでなく、霊的な死(神様と永遠に離れ離れになる)も含まれています。しかし神はそれを望まれず、私たちの死の身代わりとなって下さいました。イエス様は十字架で肉体の死と霊的な死(マタイ2746)とを経験されました。これにより、神様と私たちの間に十字架の架け橋がかけられました。このイエス様を信頼してついて行くなら、私たちの受けなければならない死は取り除かれ、救われた者となります。これが福音です。私たちがこの世界を去る時、この世界で大切にしていたものは、殆ど置いていかなければなりません。しかし、十字架の架け橋を渡った時に得る信仰は、私たちが地上の生涯を終えた後も続いていくものです。そして天国に着いた時、もう失う経験をする必要はありません。

今日は聖餐式があります。どうか憤りの道ではなく、悔い改めの道に行き、神様との正しい関係に立ち戻っていきたいと思います。

 

天の父なる神様、御名を崇め、讃美いたします。自分の人生を呪っていくような憤りの道ではなく、イエス様を信じ救われる、悔い改めの道をあなたが準備して下さったことをありがとうございます。どうぞ、私たちの心の内にある悲しみや罪を告白し、イエス様によって救いを受け取ることができますように助けて下さい。(202137日礼拝 武田遣嗣牧師)