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見捨てない神様 サムエル記第一12章18~25節

【新改訳2017】

Ⅰサム

12:18 そしてサムエルは【主】を呼び求めた。すると、【主】はその日、雷と雨を下された。民はみな、【主】とサムエルを非常に恐れた。

12:19 民はみなサムエルに言った。「私たちが死なないように、しもべどものために、あなたの神、【主】に祈ってください。私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」

12:20 サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし【主】に従う道から外れず、心を尽くして【主】に仕えなさい。

12:21 役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。

12:22 【主】は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。【主】は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。

12:23 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、【主】の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。

12:24 ただ【主】を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。

12:25 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」

 今日は、私たちが神様にとるべき態度について、①神を恐れる、②神に仕える、③神の大いなるみわざをおぼえる、この三つのポイントからお話したいと思います。

    神を恐れる(18

即位式の途中、サムエルは神を呼び求め、イスラエルで雨が全く降らない時期に雷と雨を降らせました。イスラエルは神様の偉大なみわざを目の当たりにして、非常に恐怖心を抱きました(1819)。同時に自らの罪について知ることになりました。「悪」とは、神ではなく人間の王を求めたことを指しています。しかし、サムエルは「恐れてはならない(恐怖してはならない)」と命じました(20)。出エジプト記では、イスラエルはエジプト人の奴隷であり、彼らは重労働を課されることが怖くて、エジプトに逆らえませんでした。しかし神は、イスラエルをエジプトの恐怖から救い出されました。聖書に書かれている「主を恐れること」は恐怖ではなく、畏怖(畏敬)のことです。御言葉によって神の偉大さ、聖さを知った上で、積極的に仕えることが主を恐れる態度なのです(箴17)。もし私たちが信仰深くなかったら地獄に落ちる、朝聖書を読まなければ最悪な一日になる、と怯えつつ神様に従っているなら、それは神様が望んでいる信仰生活とは言えないかもしれません。

 

    神に仕える(21

聖書には、人は神様か、それ以外かのどちらかにしか仕えることができないと書かれています。しかもそれ以外を選んだ場合、それがどんなにいいものであっても、いずれむなしいものになると教えています。あるアメリカの牧師がインタビューを受け、「あなたは牧師なのに、どうして映画や演劇を鑑賞するのが好きなのですか」と聞かれました。このインタビュアーは、牧師なのだからこの世のあらゆる楽しみを捨て去るべきだと考えていたようです。牧師は、「私は映画も演劇も大好きだ。だけどそれ以上に神様が大好きだ」と答えたそうです。彼は、この世界の良いものは楽しでもいいと教えたかったのでしょう。しかしそれに支配され、神様との関係が破壊されるなら、それはむなしいものに変わってしまいます。ですから日々聖書を読み、毎週礼拝をささげることによって、自分の仕えるべき主が誰なのか確認すべきです。

 

    神の大いなるみわざをおぼえる(22

 自分の罪を自覚している者に対し、神はあなたをゆるしますと、救いを告げて下さいます。このゆるしと救いは、神様の最も大きなみわざと言えるでしょう。ゆるしと救いを聖餐式や日常の中で感謝しつつ歩むことが、神の大きなみわざをおぼえることです。信仰者の原動力は、このゆるされた、救われた喜びです。恐怖やむなしいものではありません。

 

 天の父なる神様、今日は神の前でとるべき三つの態度について教えられました。神様は私たちがどれだけ罪を犯してきたのかご存じです。しかし22節にあったように、あなたを見捨てない、あなたはわたしの民だと今日も語って下さっていることに感謝します。自暴自棄になり落ち込むのではなく、神様の御言葉に聞き、今週一週間も主を恐れ、主に仕え、あなたの大いなるみわざをおぼえることができますように助けて下さい。(2021314日礼拝 武田遣嗣牧師)