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復活を信じること ヨハネの福音書11章38~44節

【新改訳2017】

ヨハ

11:38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」

11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。

11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」

11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

 イエス様は、弟ラザロを亡くした姉妹にそれぞれ相応しい慰めを与えられました。つまり、マルタには力強い神のみことばを語られ(25)、マリヤには何も語らず涙を流して彼女の悲しみに共感されました(35)。しかも、ただ慰めるだけではなく、ラザロを復活させたのです。本日は11章後半から①体の復活、②ラザロの復活とイエスの復活、③復活を信じるには?、についてお話します。

    体の復活(39

マルタはみことば(25)に慰められていましたが、本当にラザロの体がよみがえるとは信じていませんでした。BC400年、哲学者プラトンは霊肉二元論を考え出しました。私たちの体は飾りのようなもので、本体は霊である、だから人は死後霊だけの存在になると言う思想です。これは今も私たちに影響を与えています。しかし聖書が語る復活の希望は、体と霊の復活です。神様はいつか、信仰者の霊と体をよみがえらせて、神の国に住まわせると約束されています。聖書には、そこにはもはや悲しみも叫びもない、また私たちがこの世界に望んでいた正義や愛があると書かれています。ですから、聖書の語る復活の希望は霊だけで天国に行くのではなく、体を持った、もっと具体的な希望なのです。

    ラザロの復活、イエスの復活(42

 42節後半には、ラザロが復活する目的が書かれています。ラザロの復活は、後に続くイエス様の復活の前座のようなものでした。イエス様は、私たちの身代わりとなり、十字架にかかって死んでよみがえりました。そして天に昇られ、今もこの世界を治めておられます。イエス様は霊だけ生き返ったのではありません。1224にある「一粒の麦」とはイエス様のことです。イエス様が死んで下さったことによって、多くの永遠のいのちの実が結ばれるようになりました。このイエス様の死と復活を根拠にして、私たちは復活の希望を持つことができます。

    復活を信じるには?(4344

イエス様が処刑された後、福音は急速に広まっていきました(歴史的事実)。もしイエス様が十字架上で死んだまま復活しなかったら、あのように福音が広まるはずがない、だからイエス様は復活したに違いない、と言う人がいます。しかし、イエス様の復活を理性で証明するのは非常に難しいです。43節は非常に権威のあるみことばです。神は、私たちが考えられないほど権威のある方です。多くの人は自分の願いをかなえてくれる、手の平サイズの神様を求めていますが、神が自分よりはるかに力や知恵があることを認める時、復活を信じることができるのだと思います。長い間復活を心から信じられないでいた一人の姉妹が、ある時教会学校のお話を聞きました。「イエス様は神様だから、人を復活させることができます」、このシンプルなメッセージを聞いた時に、いのちをつくられた神様がいるなら復活は当たり前だと、復活を素直に受け入れることができたそうです。イエス・キリストを自分の主とする時、私たちはこの神様なら不可能はないと信じて、復活の希望を受け入れ、天国まで恐れなく進むことができます。今日も真の神を神として歩んでいきたいと思います。

 「 ですから、わたしの愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。 」(Ⅰコリ1558

 

天の父なる神様、みことばをありがとうございます。イエス・キリストを信じるのであれば、死はすべての終わりではありません。私たちがイエス・キリストにあって復活の希望を今日も抱いて、歩み続けることができますように助けて下さい。先に天国に送った信仰の友との再会を楽しみにしつつ、この人生を喜び、楽しむことができますように。今週も最高の慰め主であるあなたが、私たち一人一人と歩んで下さいますようにお願いいたします。(202144日礼拝 武田遣嗣牧師)