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信仰のもたらすもの サムエル記第一14章16~23節

【新改訳2017】

Ⅰサム

14:16 ベニヤミンのギブアでサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、大軍は震えおののいて右往左往していた。

14:17 サウルは彼とともにいる兵に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、点呼して調べなさい。」彼らが点呼すると、ヨナタンと道具持ちがいなかった。

14:18 サウルはアヒヤに言った。「神の箱を持って来なさい。」神の箱は、そのころ、イスラエル人の間にあったからである。

14:19 サウルが祭司とまだ話している間に、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。サウルは祭司に「手を戻しなさい」と言った。

14:20 サウルと、彼とともにいた兵がみな集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士討ちをしていて、非常に大きな混乱が起こっていた。

14:21 それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。

14:22 また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。

14:23 その日、【主】はイスラエルを救われた。そして、戦いはベテ・アベンに移った。

 今日は、第一にサウル王の不信仰について(1719)、第二にヨナタンの信仰について(2023)見ていきましょう。

 サウルは、大切な息子ヨナタンがペリシテ軍の陣営に突撃したことを知り、不安と恐れでいっぱいになりました。彼はまず、祭司アヒヤを通して神のみこころを尋ねようとしました。しかし騒動がますます大きくなっていき、サウルはアヒヤに「手を戻しなさい」と命じました。これは、神に祈ることをやめなさいという意味です。即ち、祈っている場合ではないと判断したのです。私たちもやるべき仕事の手を止めて神の前に静まることは、簡単ではありません。なぜなら、私たちは祈り以外に、やることが山積みになっているからです。神の前に静まるには勇気が必要であり、それは偉大な神様への信仰によって与えられます。もし自分の人生が神の御手の中にあると心から思えるなら、静まることができるはずです。しかし、自分の人生は自分の力と知恵が頼りだと思うなら、静まることはできません。現代は徐々に能力至上主義になっています。私たちの世代は、オンリーワンの力を身に着けるべきだといつも誰かに言われている気分になっています。しかし、この世に調子を合わせてはいけません。私たちを愛し、私たちの人生を支えて下さる神様の前に静まる時間を持ちましょう。偉大な神様に信頼して立ち止まる勇気を持ちましょう。

 一方、ヨナタンはサウルと正反対でした。彼は神のみこころを尋ねつつ、ペリシテ人に向かっていきました(14810)。彼には、偉大な神様を信じているが故の平安がありました。神様はヨナタンの信仰に応えて、イスラエルをペリシテ人の手から救い出しました。まず、ペリシテ側についていた人たちがイスラエルに寝返ります(21)。そしてペリシテ人を恐れて隠れていたイスラエル人が戦いに加勢していきます(22)。あっという間に、ペリシテ人は退陣を余儀なくされたのです。「主はイスラエルを救われた」ということば(23)に注目しましょう。ここで使われている「救い」ということばは、ヘブル語でヤーシャーと言いますが、特に敵対者からの救いを意味しています。もし私たちがこの偉大な神様を信じるのであれば、私たちを苦しませている状況や敵対者から、神は救い出して下さいます。

 神への信仰は目の前の困難から救い出すだけではありません。私たちの最大の敵は、私たちの内にある罪ではないでしょうか。罪は、私たちを神から離れさせます。人類の罪は様々な形でこの世界に表出しています。今日の箇所と同様に、現在でも各地で紛争や戦争が絶えません。人間の罪の現実は変わってはいないのです。人間は、自分の力でその最大の敵である罪には打ち勝てないということを、歴史が証明しています。イエス様は本物のヤーシャーを私たちに与えるために、二千年前地上に降りて来られ、十字架にかかって下さいました。イエス様は人類の罪の身代わりとなって死に、私たちが信仰によって救われるようにして下さったのです。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。サウルは神の偉大さを認めませんでした。私たちも神の偉大さに目を向けないことがあります。しかしあの何万というペリシテ人からイスラエルを救い出した神が、今週も私たちと共にいて下さることを信じ、歩んでいくことができますように。神様、どうぞここにいる一人一人と共にいて下さい。(2021年4月18日礼拝 武田遣嗣牧師)