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神の御心を歩むには サムエル記第一14章24~35節

【新改訳2017】

Ⅰサム

14:24 さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。

14:25 この地はどこでも、森に入って行くと、地面に蜜があった。

14:26 兵たちが森に入ると、なんと、蜜が滴っていたが、だれも手に付けて口に入れる者はいなかった。兵たちは誓いを恐れていたのである。

14:27 しかし、ヨナタンは、父が兵たちに誓わせたことを聞いていなかった。彼は手にあった杖の先を伸ばして、蜜蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れた。すると彼の目が輝いた。

14:28 兵の一人がそれを見て言った。「あなたの父上は、兵たちに堅く誓わせて、『今日、食物を食べる者はのろわれる』とおっしゃいました。それで兵たちは疲れているのです。」

14:29 ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ほら、この蜜を少し口にしたので、私の目は輝いている。

14:30 もしも今日、兵たちが、自分たちが見つけた敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を討ち取っていただろうに。」

14:31 その日彼らは、ミクマスからアヤロンに至るまでペリシテ人を討った。それで兵たちはたいへん疲れていた。

14:32 兵たちは分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場で屠った。兵たちは血が付いたままで、それを食べた。

14:33 すると、「ご覧ください。兵たちが血のままで食べて、【主】に罪を犯しています」と、サウルに告げる者がいた。サウルは言った。「おまえたちは裏切った。今、大きな石を転がして来なさい。」

14:34 そしてサウルは言った。「兵の中に散って行って、彼らに言いなさい。『それぞれ自分の牛か羊を私のところに連れて来て、ここで屠って食べなさい。血のままで食べて【主】に罪を犯してはならない。』」兵はみな、その夜、それぞれ自分の手で牛を連れて来て、そこで屠った。

14:35 サウルは【主】のために祭壇を築いた。これは、彼が【主】のために築いた最初の祭壇であった。

 サウルは自分の兵たちに断食の誓いを立てさせましたが、これはペリシテに対して勝利がほぼ確定してからのことでした。彼は自分の面目を保つためにこの命令を出したのです。いかにも信仰深そうな命令ですが、これがヨナタンや兵たちを苦しめることになってしまいました。私たちも同じ轍を踏む可能性があります。良い行いをすることで自分を良く見せようとしたい、自分の行いが神様になってしまう、今日はこの律法主義の罠について共に教えられたいと思います。

 先陣を切ってペリシテ陣に突っ込んで行ったヨナタンと、後ろから来たイスラエル兵が合流し、逃げるペリシテ人を追いかける途中、蜜のしたたる森を通りました。ヨナタンはその蜜を飲んで目が輝いた、とあります(27)。これは神様の力がヨナタンに働いたことを表しているようです。しかしサウルの断食の誓いによって、兵たちは蜜を飲むことができず疲れ切ってしまい、ヨナタンは蜜を飲んだ罪を問われて、サウルに殺されそうになります(44)。サウルのいかにも立派な誓いがもたらした悲劇はこれだけでは終わりませんでした(3132)。夕方になって断食の誓いが解かれると、兵たちは空腹に耐えかねて、血抜きをしないで牛や羊の肉を食べてしまいました。旧約聖書の律法では、血のあるままで動物の肉を食べてはいけないことになっていたのですが、サウルの誓いによって兵たちも罪を犯してしまったのです。これらの問題の責任をとる人はサウルなのですが、彼の態度には非常に驚かされます(33)。自分自身は悪くないと思い、むしろ兵たちの罪を指摘しているのです。一見信仰深く見える行いが、自身の罪を見えなくしてしまったのかもしれません。

 昨年、取手の教会と講壇交換を行ったことがありましたが、行く途中で非常に懐かしい店が目に入りました。それは私が千葉県に住んでいた時、友人と通いつめたラーメン屋さんで、柏から取手に移転したのでした。そこのラーメンは私が10代後半から20代前半に食べた、大袈裟に言えば私の青春そのもので、どうしても食べたいと思いました。取手での奉仕をすべて終えた帰り、私はいつの間にかその店に車を停めていました。妻が夕食の準備をして待っていることはわかっていましたが、今日自分はこれだけのことをやった、ご褒美としていいだろうという思いが沸き上がってきました。妻から見たら、非常に自分勝手な主張です。結局、私は断腸の思いでそのラーメン屋さんを後にしました。自分はこれだけのことをやったという高慢がいつの間にか私の心を支配していました。そしてそれが人を傷つけたり、人を愛せないことに繋がっていくのだと思います。私たちには、高慢によって自分の罪が見えなくなってしまうことがないでしょうか。

 サウルが陥った罪は、新約聖書に登場する律法学者やパリサイ人の罪と同じだと思います。彼らは自分の良い行いに自信を持って、自分の行いが自分を救うと思っていました。聖書が提案するこの問題の解決は、恵みによる救いに目を留めることです(エペソ2810)。私たちの救いは恵みによるのであって、行いによるのではありません。そして恵みによって救われたことの応答として、私たちは教会の奉仕や良い行いをしていくのです。

 

 天の父なる神様、御名を崇め、讃美いたします。みことばをありがとうございます。私たちは恵みによって救われているのだと知っていたとしても、自分の行いによって救われているかのような態度をとってしまうことがあります。しかし私たちはあなたに今日も恵みを与えられ、あなたは今日も救いの御手を伸ばして下さっています。どうぞ、この主から与えられている恵み一つ一つに感謝しつつ、良い行いをしていくことができますように。私たち一人一人に良い行いが備えられています。どうぞ正しい心、正しい動機でその良い行いをすることができますように助けて下さい(2021425日礼拝 武田遣嗣牧師)。