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救いを求める祈り サムエル記第一14章36~46節

【新改訳2017】

Ⅰサム

14:36 サウルは言った。「夜、ペリシテ人を追って下り、明け方までに彼らからかすめ奪い、一人も残しておかないようにしよう。」すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」

14:37 サウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日、神は彼にお答えにならなかった。

14:38 サウルは言った。「民のかしらたちはみな、ここに近寄りなさい。今日、どうしてこの罪が起こったのかを確かめてみなさい。

14:39 まことに、イスラエルを救う【主】は生きておられる。たとえ、それが私の息子ヨナタンであっても、必ず死ななければならない。」しかし、民のうちだれも彼に答える者はいなかった。

14:40 サウルはすべてのイスラエル人たちに言った。「おまえたちは、こちら側にいなさい。私と息子ヨナタンは、あちら側にいることにしよう。」民はサウルに言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

14:41 サウルはイスラエルの神、【主】に「みこころをお示しください」と言った。すると、ヨナタンとサウルが取り分けられ、民は外れた。

14:42 サウルは言った。「私か、私の息子ヨナタンかを決めてください。」するとヨナタンが取り分けられた。

14:43 サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、私に話しなさい。」ヨナタンは彼に話した。「確かに、手にあった杖の先で、少しばかりの蜜を口にしました。この私が死ななければなりません。」

14:44 サウルは言った。「神が幾重にも罰してくださるように。ヨナタン、おまえは必ず死ななければならない。」

14:45 民はサウルに言った。「この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはあり得ません。【主】は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。」こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。

14:46 サウルはペリシテ人を追うのをやめて引き揚げ、ペリシテ人は自分たちのところへ帰って行った。

 今日の主要なテーマは罪です。罪には三つの特徴があります。

第一に、罪は神様との関係を失わせます。サウルはペリシテ陣に攻め込む前、神様に伺いを立てようとしましたが、騒動が大きくなるにつれ不安になって祭司に祈りを止めさせました(1419)。しかし今日の箇所では、自分の罪の故に兵たちを疲れさせながら、自身は信仰深いと思っているサウルが祈ることなく、意気揚々とペリシテ陣営を追い詰めようとします(36)。このように罪を悔い改めないサウルが、神様との関係を徐々に失っていく様子を、聖書は巧みに表現しています。うまくいかない時やかなえてほしいことがある時だけ祈るのではなく、常に神様との親しい関係を喜び、楽しむ生活を送りたいと思います。

第二に、罪は罪に対し無自覚にさせます。サウルが神様から答えをいただけなかったのは、彼の罪が原因でした(37)。しかし彼はそれに全く気付いていません。自分と息子ヨナタンだけは罪を犯していないと考えていました(3839)。聖書には、誓いを破ったら必ず死ななければならないとは書いてありません。サウルが敢えてこのように宣言したのは、自分の正しさに相当自信があったからです。しかし断食の誓いを破ったのは、彼の愛する息子ヨナタンでした(27)。少なくとも一部の兵士はヨナタンが蜜を飲んだことを知っていたので、彼らはこの自信満々なサウルを見て、サウルを哀れな人だと思ったかもしれません。実は私たちも兵たちがサウロを見ていたように、他人を見ているかもしれません。しかし私たちもサウルと同様、罪に無自覚な性質を持っているのです。

第三に、罪は罪を悔い改めなくさせます。サウルは神様に悔い改めて、救いを求めなければなりませんでした。しかし彼のプライド(罪)がそれをさせません。そこで民たちがヨナタンの救いを求めました(4345)。「救った」ということばは贖うとも訳せ、代価を払って買い取ることを意味しています。民たちは、神様への信仰をもってヨナタンを救い出したのです。この箇所は、皆さんの信仰が皆さんの家族や友人の救いに影響を与えることがある、ということを教えています(マルコ25)。

サウルの自信の根拠は神ではなく、自分自身でした(36,46)。それは何と折れやすく、はかないものでしょうか。偉大な神様との関係性が、今私たちが直面している問題の解決に力を与えるのではないでしょうか。サウルはこの後、自分の罪の結果に苦しむことになります。ダビデという敵をつくって、ダビデを追い詰める人生に生きるのです。罪に無自覚な者は、自分の外側に敵をつくりだしてしまいます。サウルがしなければならなかったことは、自分の外に敵をつくるのではなく、自分の内にある罪という敵に、神様と立ち向かうことではなかったでしょうか。

神様は私たちの罪の現実に心を痛められ、私たちを愛するが故に、愛するひとり子イエス様を与えて下さいました。それは、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです(ヨハネ316)。私たちは神様と何度も関係を断ち切ったかもしれません。無自覚の罪で、神と人を傷つけてきたかもしれません。しかしイエス様は、私たちを見捨てず、今日も礼拝に招いて下さいました。私も含め、ここにいる一人一人が罪を認め、神様の救いを受け取ることができますように。

 

天の父なる神様、みことばをありがとうございます。今日は、罪の現実についてみことばから聞きました。もしも私が自分のしてきた罪をここで告白するのであれば、私の弱さにここにいる人々は悲しむかもしれません。けれども、一人一人がそのような、人に言えない罪を抱えているのではないでしょうか。しかしイエス様の十字架の救いは、どんな罪であっても私たちを救いに導く力があります。どうぞ、一人一人がイエス様の愛に応え、この救いを信じてあなたと共に生きていく選択をすることができますように。そして罪から自由にされる喜びを、私たち一人一人が味わって歩むことができますように助けて下さい。(202152日礼拝 武田遣嗣牧師)