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恐れから愛へ サムエル記第一17章1~19節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 17 ]

17:1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。ユダのソコに集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。

17:2 一方、サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをした。

17:3 ペリシテ人は向かい側の山の上に構え、イスラエル人は手前側の山の上に構えた。その間には谷があった。

17:4 一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。

17:5 頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。

17:6 足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。

17:7 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。盾持ちが彼の前を歩いていた。

17:8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。

17:9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」

17:10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」

17:11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。

17:12 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。

17:13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに行っていた三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであった。

17:14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていたのである。

17:15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を世話するためであった。

17:16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた。

17:17 エッサイは息子ダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。

17:18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を確認しなさい。そして、しるしを持って来なさい。

17:19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人はみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているから。」

 ペリシテ人が軍隊を召集したのを見て、イスラエルも慌てて陣を敷いて対抗しました。両者の陣営は山の上にあって、間には「エラの谷」(2)という平地が広がっていました。私たちは「谷」と言うと、もう少し急で深い所を想像しますが。エラの谷は山と山に挟まれた広い平地なのだそうです。それぞれの軍は相手の陣に攻め込む時、エラの谷を必ず通らなければなりません。しかし迂闊に通ると、高い所から弓で狙い撃ちされる危険もあります。先に攻め込んだ方が不利なのです。ですから、戦いは膠着状態のままでした。

 そこに登場したのが、ペリシテ人の代表戦士ゴリアテでした(47)。ここには、ゴリアテの恐ろしさが非常に詳しく書かれています。背の高さ6キュビト半は、約2.7mです。青銅の兜は、ペリシテ人しか持っていない特別な兜で、イスラエル人にはないものでした。鱗綴じの鎧には何百もの金属片が皮に縫い込まれていて、防御力と共に機動性に優れていました。また、この時代の兵士が身に着けなかったすね当ては、背の高いゴリアテの弱点である足元を覆うものだったでしょう。槍の穂先600シェケルは6.8kgでした。これらの記述から、ゴリアテがどれほど力強い戦士だったかが明らかになると思います。

 ゴリアテはイスラエルに、11の勝負を申し込みます(8)。この勝負に負ければ、戦争に負ける可能性がありました。両軍は一騎打ちの模様を見ることができます。勝った方の兵全体は鼓舞されますが、負ければ士気が一挙に下がります。イスラエルはゴリアテに勝てる兵士を用意しなければならない状況に立たされていました。しかし、そのような兵士はいなかったのです。

 サウルは怯えるしかありませんでした(11)。410節までゴリアテの恐ろしさについて文面がさかれていますが、まるで私たち読者に対して、サウルが体験したゴリアテの恐ろしさを疑似体験させているようです。サウルは、ペリシテ人との戦いは今回が初めてではありません。彼らに勝ったこともあります。しかし、サウルは恐くて仕方がない様子でした。なぜかと言うと、サウルが神様との関係を失っていたからです。

 私の神学校時代の先輩が、「神様への愛と恐れは、油と水みたいなものですよ」と話してくれたことがあります。油と水が混ざらないように、私たちの心を神様の愛でいっぱいにした時、私たちの心に恐れが入る余地はないと言うのです。彼はもともと科学者で、論文を書いては発表する毎日の中で神様から導きを受け、牧師を志した人ですが、この人も神様の愛を一番大切にしているということに感動したのでよく覚えています。

 サウルは神様との愛の関係を失っていたので、ゴリアテの姿がより大きく、より恐ろしく見えました。皆さんが何か(仕事、死、病気、人間関係など)に恐さを覚えている時、その恐さを克服するために、恐さを見ないようにしたり、自分が強い者のように振る舞うこともできるでしょう。しかし聖書は、神と愛の関係を結ぶように勧めています。

 では、私たちが神様と愛の関係を結んで、恐れを心から取り除くためにはどうしたらよいでしょうか。それは聖書のみことばを真摯に聞くことです。カルヴァンは人生の目的は何かと問われた時、神を愛するために神を知ることだと答えたそうです。私たちはただ知識を蓄えるために聖書を読むのではありません。私たちは神を愛するためにみことばを読み、神を知るのです。私たちはみことばを読んで、神様の愛で心をいっぱいにしようとしているでしょうか。

 本文に戻りましょう。12節から登場するダビデの仕事は、サウルのために竪琴を奏し、実家に帰れば羊の世話をすることでした。 誰もダビデがゴリアテを倒すことなど期待していないことがわかります。しかし聖書では、神様に用いられる人は、ほとんど弱さを持っています。モーセは口下手でしたし、ギデオンは気弱、ペテロは調子に乗りやすく、パウロは病に苦しんでいました。ダビデも力強い人とは言えません。しかし、神様はダビデの弱さを通して、ご自身のすばらしさを人々に示されたのです(Ⅱコリ1279)。私たちは恐怖に負けてしまう時、私たちの弱さを強く感じるかもしれません。しかし神様はその弱さを、わたしが用いると仰って下さいます。弱さを克服する前に、弱いままでわたしとの愛の関係を始めなさいと招いて下さっているのです。私たちは聖書を通して、神様との愛の関係を育んでいるでしょうか。神様からのラブレター(聖書)を無視して、今日まで歩んできていないでしょうか。

 

 天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。私たち一人一人に、ゴリアテのような、見るだけで足がすくむ恐れがあるかもしれません。その恐れを克服する唯一の方法は、神様の愛を私たちが知ることです。主よ、あなたが愛していない人は誰一人いません。どうぞ、私たちが聖書を読み、あなたの愛を知り、あなたと共に人生を歩んでいくことができますように。どうぞ、それぞれに聖書を学ぶ機会を与えて下さい。そして聖書の知識が信仰、愛に変わり、信仰と愛とがまた神様への知識を求めていく、そんな好循環が私たちの間に生まれていきますように。どうぞ、あなたが私たちに愛を教えて下さい。(2021627日礼拝 武田遣嗣牧師)