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この戦いは主の戦い サムエル記第一17章41~51節

【新改訳2017】

Ⅰサム

17:41 そのペリシテ人は盾持ちを前に立て、ダビデの方にじりじりと進んで来た。

17:42 ペリシテ人は、ダビデに目を留めて彼を見つめ、彼を蔑んだ。ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったからである。

17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。

17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」

17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かう。

17:46 今日、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。

17:47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

17:48 そのとき、そのペリシテ人はダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。

17:49 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。

17:50 ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。

17:51 ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。

 40節はダビデがゴリアテとの戦いを準備する箇所です。彼は、鎧も剣も身に着けず、ゴリアテに向かいました。ただ、羊飼いが使う石投げ用に石を拾っただけです。そして若い人らしく、せわしなく動いています。短い節の中に「手に取り、石を選んで、投石袋に入れて、手にして、近づいて」と、ゆっくり進んで来たゴリアテ(41)とは、対照的に描かれています。

さて、42節からはダビデとゴリアテの一騎打ちが始まります。ゴリアテはダビデを蔑みました。おそらくダビデは軽装で、血色が良いのがよくわかったのだと思います。武器らしいものを持たず、手には杖しか持っていませんでした。また戦争の古傷もなく、このような少年が戦場の最前線に立っているのです。そして彼がこれから戦うのは歴戦の猛者で、体を重装備で固めた大男なのです。想像してみると、これはあり得ない状況ではないでしょうか。神がダビデを選んで、この場所に遣わしたのだと思います。私たちも時に、自分ではどうしようもない状況に置かれることがあります。そんな時、ゴリアテの前に立たされたダビデの姿を思い出したいと思います。弱いダビデがゴリアテに打ち勝ったからこそ、神様のすばらしさが証されたわけです。つまり、神は私たちの弱ささえも用いて下さるのです。

一騎打ちの前に名乗る(4344)しきたりは、日本にもありました。二人の名乗りも対照的です。ゴリアテは、ダビデの杖に注目しています。彼は自分の持つ鋭い武器と、ダビデの杖とを比べ、勝ちを確信しているようです。しかし興味深いのは。ゴリアテがダビデの石投げと石とを見逃していることです。どんなに自信のある人でも、やはり人は人、欠けのある存在であることが示されています。またゴリアテは、自分の信じる神々によってダビデを呪ったと書かれています。「神々」とは、ペリシテ人が拝んでいたダゴンやアシュタロテと呼ばれる偶像のことです。例えばダゴンは遅くてもBC2500年には存在し、これを信じれば作物の実りが約束されていると言われていました。しかしゴリアテは、名乗りの中で自分の信じる神について深く語っていません。やはり、彼にとっての神は自分の能力や武器だったのです。一方ダビデは、名乗り(4547)の中で「主」ということばを何度も口にしています。彼は自分の能力とか武器ではなくて、主なる神によって打ち勝とうとしているのです。「この戦いは主の戦いだ」(47)は、この戦いのすべてを神が支配しておられるという意味です。この神を信じないということは、人生最大の損失だと思います。私たちは自分をどれだけ鍛え、どれだけ賢くしても、自分の力では到底及ばない現実に直面することがあります。いつか、どこかで限界が来ます。聖書の神様はこの世界を創造され、世界の歴史や自然の秩序を今もすべて守り、保っておられるお方です。私たちの家族や、私たちを敵対視している人にまで、すべてに働きかけることができるお方です。私たちはゴリアテを見て、自分自身が頼りだという生き方の脆さに気づきましょう。またダビデを見て、神を信じることの安心感、約束された勝利を覚えて歩んでいきたいと思います。

ダビデは、ゴリアテの額に石を放ちました(4951)。ゴリアテは重装備でしたが、視界を保つため目の周辺だけは無防備でした。ダビデはそこを狙ったのです。ダビデは倒れたゴリアテの剣を引き抜いて、その剣でとどめを刺します。ゴリアテが自分が信じていた武器によって死に至ったこととも、非常に大切なポイントではないでしょうか。人間は生まれた時から宗教的な存在で、常に何かを信じて生きています。無神論だと言っても、自分を幸せにしてくれるであろう何か(金銭、ギャンブル、恋愛など)を、神として生きているものです。しかし、そのような神々は私たちを御国に連れていくことができるでしょうか。私たちは、真の神を主とする人生を送りましょう。

最後に、礼拝の本質は正に神を主とすることです。礼拝の中であわれみ深い神様の前に悔い改め、礼拝の中で神様を自分の主として告白する、これが礼拝です。ある牧師が、「最近、礼拝が商品化している」と仰っていました。コロナ禍の現在、オンライン礼拝が普及し、私たちは、自分が所属している教会以外の礼拝にも簡単に顔を出すことができます。そして、自分が所属している教会の牧師よりメッセージがよかったり、慰められたりするかもしれません。その結果、自分が最も励まされたり、慰められたりするオンライン礼拝を選んで参加するようになっていく、まるで一番自分に効く栄養ドリンクを買うような感覚で、礼拝を選んで視聴してしまう、これはたまにはよいかもしれませんが、礼拝の中で慰められたり励まされたりすることは大切であっても、本質ではありません。むしろ私たちが神を主とした後に、本当の慰めや励ましが来るのではないでしょうか。礼拝の本質は、あのダビデのように、この神こそ主であると告白するところにあります。そしてその先に、ダビデのような勇敢な信仰者の道があると思うのです。

 

天の父なる神様、みことばを感謝します。私たちが一時的な慰めを求めるのではなく、礼拝を通してこの神を自分の主と認め、私たちの道を真っすぐにされる主に依り頼むことができますように助けて下さい。今週一週間も、あなたが私たちと共にいて下さい。(2021711日礼拝 武田遣嗣牧師)