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信仰にあって一つ サムエル記第一18章1~5節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 18 ]

18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。

18:2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。

18:3 ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。

18:4 ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。

18:5 ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めた。サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれた。

 私たちは年齢が上がっていくにつれて、友情に冷めていきがちです。本日は、ダビデとヨナタンの友情を通して、聖書的な友情について学びたいと思います。

 15節を見ると、主語はほとんどヨナタンです。そして、ヨナタンがダビデを愛していたことが強調されています。但し、ヨナタンが一方的にダビデを愛していたのではありません。ヨナタンはダビデより大分年上で、身分も違いました。そんな二人が、なぜ厚い友情を結ぶことができたのか、それは、彼らには信仰という大きな共通点があったからです。サムエル記第一は、二人を非常に似た人物として描いています。例えば、ダビデはペリシテ人の大男ゴリアテを倒しましたが、ヨナタンもペリシテ人の大軍隊に勝利をおさめました(1461747)。聖書は、信仰ほど人を強く結びつけるものはないと主張しています。新約聖書の「使徒の働き」では、異国の者や憎しみ合う者を一つにする働きがありました。私たちの性格が合わなくても、神を信じて忍耐を持って互いに愛し合う先に、私たちは一致を期待することができます。

 では、聖書が教える「友」とはどういう関係なのか、学んでいきたいと思います。ティモシー・ケラーという牧師は、聖書の友人関係には二つの特質があると言いました。一つは裏表のなさ、もう一つは継続性です。1節には、ヨナタンとダビデの心が結びついたと書かれています。彼らは共に喜び泣く、心の深い部分をさらけ出す、表裏のない関係を持っていました。ヨナタンはダビデよりかなり年上でしたが、ダビデと対等な関係を望んでいることがわかります(4)。クリスチャンの友情には、表裏のなさは非常に重要だと思います。クリスチャンの友情は、天の御国という最終目的地に一緒に向かっていくために必要不可欠だからです。クリスチャンは、人生という荒野を乗り越えていく仲間なのです。ですから裏表なく、間違っていることは間違っていると指摘できる関係、良いことを仲間がした時は共に喜ぶ、悲しい時は共に泣く、これが聖書の教える友情です。

 次に3節を読みましょう。これは生涯、互いに愛し合うという契約です。ヨナタンとダビデは、この契約を守り通しました。例えば、ヨナタンはダビデが命を狙われた時、何度もダビデを助けようとしました。またヨナタンの死後、ダビデはヨナタンの息子を心から愛しました。明らかに、ヨナタンとダビデの友情には継続性があります。旧約聖書「箴言」には、友についてこのように書かれています(箴言1717)。まがい物の友は皆さんが調子の良い時には寄ってきますが、肩書、地位、影響力等がなくなると去って行ってしまいます。しかし聖書の友情とは、継続性があるものです。相手の悪い部分を見ただけですぐに距離をおいたりとか、相手のすべてが嫌いになる、このような人は、聖書が言う真の友情を築くことは難しいでしょう。また、私たちはどんな人間関係でも、仮面をつけて始めないでしょうか。でも継続的に関わっていくと仮面がはがれていき、それぞれ自分がどんな人間なのかが徐々に明らかにされていきます。仮面がはずれていくとは、自分の恥ずかしさや弱さが露呈していくことです。しかし聖書の言う友情は、仮面をはずした後に生まれてくるものです。教会の人間関係においても、結婚生活においてもそうではないでしょうか。18章の主題は愛と憎しみです。15節では、ヨナタンとダビデが愛し合い、友情を育む様子が描かれています。しかし6節以降はサウルの醜い憎しみが描かれています。サウルは初めはダビデを愛していましたが、その愛には継続性がなく、18章の後半には憎しみに変わっています。

 表裏がなく、継続性のある愛を互いに与え合っていく、これは非常に難しいと思います。しかし、この友情をあきらめなかった私たちの主、イエス・キリストに思いを向けたいと思います(ヨハネ151314)。わたしが命じることを行うのか、条件付きなのかと思うかもしれませんが、友になるとは一方通行ではなく互いに愛し合わないといけないので、こういう書き方がされているのです。私たちの主イエス様は、私たちが神を知らない時も、神を忘れていた時も、私たちを愛して下さっていました。ですから、イエス様の愛には継続性があります。またイエス様は表裏がなく、私たちにいつも真実を告げて下さいます。イエス様を見上げ、主とすることが、浅い人間関係から脱却する道です。私たちはイエス様に倣いましょう。すぐに憎しみに変わる愛ではなく継続的な愛、嘘で飾った愛ではなく表裏のない愛を目指していきましょう。本当の友情をつくる愛を、イエス様から学ぶ一週間にしていきたいと思います。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。まずあなたが私たちを愛し、ゆるして下さいました。私たちの人生の道を示して下さいました。私たちがあなたから受けたものを、周りの人たちにさしあげることができますように。私たちは愛がない者ですから、愛を与えて下さい。今週一週間も、私たちの友として共に歩んで下さい。(2021718日礼拝 武田遣嗣牧師)