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御霊と共に御心へ サムエル記第一19章11~24節

【新改訳2017】

Ⅰサム

19:11 サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」

19:12 そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。

19:13 ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。

19:14 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った。

19:15 サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」

19:16  使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった。

19:17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人が、『逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せるだろうか』と私に言ったのです。」

19:18 ダビデは逃げて、難を逃れ、ラマのサムエルのところに来た。そしてサウルが自分にしたこと一切をサムエルに告げた。彼とサムエルは、ナヨテに行って住んだ。

19:19 するとサウルに「ダビデは、なんとラマのナヨテにいます」という知らせがあった。

19:20 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言し、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。

19:21 このことをサウルに告げる者がいたので、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。

19:22 サウル自身もラマに来た。彼はセクにある大きな井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねた。すると、「今、ラマのナヨテにいます」という答えが返ってきた。

19:23 サウルはそこへ、ラマのナヨテへ出て行った。彼にも神の霊が臨んだので、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテまで来た。

19:24 彼もまた衣類を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていた。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになった。

 聖霊は、人に神様の御心を行わせます。今日は聖霊のこの働きに注目しましょう。 

 さて、ダビデはもともと、ギブアという町に住んでいました。そこからダビデが逃げたラマまでは僅か5キロしか離れていません。殺されそうになっているなら、もう少し遠くに逃げた方がいいような気がします。しかし彼は遠くに逃げるより、神様の御心を尋ねることを優先しました。ラマには、預言者サムエルが住んでいましたし、預言者の一団がいました(20)。預言者とは、聖霊の力を受けて神様の御心を人々に話す人です。聖霊が私たちに御心を伝える手段として最も用いるのはみことばです。ダビデは預言者からみことばを受けることによって、神様の御心は何なのかを尋ねようとしていたのかもしれません。ダビデはこれまで熱心に、神様とサウル王に仕えてきました。しかしその結果、命を狙われる身となってしまいました。私たちは苦難の中にある時、神様がいたらなぜこんな苦難に合うのだと絶望し、神様から目をそむけてしまうのではないでしょうか。ダビデは、この世界には神様の計画があり、この苦しみにも意味があるに違いない、神の御心を求めようと思いました。御心は、簡単には明らかになりません。多くは人生を振り返った時にわかるものです。しかし、御心を求め続けることは、良い信仰者の特徴と言えるでしょう。パウロもそうでした。彼は聖霊に御心を尋ね求めて、何度も宣教旅行の予定を変えました。私たちも精一杯生きていく中で、私たちを愛して下さっている神様のご計画を隅に追いやっていないか考える時間が必要です。

サウルは使者を遣わしただけでなく、自身もラマに行きましたが、聖霊が臨んでダビデを捕まえることはできませんでした(2024)。「一昼夜、裸のまま倒れる」は、自分の名誉を求め続けていた者の末路です。これは名誉とは正反対、サウルが最もさらしたくない姿だったのではないでしょうか。聖書は、名誉を神とすることに気をつけるように警告しています(マルコ104243)。信仰者が名誉に心を奪われていくと神様を見上げられなくなり、御心から離れていきます。

「サウルも預言者の一人なのか」(24)は、サムエル記第一101112にも出てきました。10章はサウルが王に任命された箇所で、任命された後、サウルに聖霊が下りました。そしてサウルは堂々とみことばを預言し、それを見た人々が、彼に期待を込めて「サウルも預言者の一人なのか」と語りました。但し、19章ではニュアンスが全く違います。人々はサウルの姿を見て、侮蔑をこめてこのように噂するようになったのです。私たちはサウルのようではなく、神様を主とする謙遜に生きているのか、吟味したいと思います。

神様はこの世界の計画を立てておられます。ですから、世界は決して無秩序ではありません。多くの自然災害があり、私たちが困難に立たされることもあります。しかし、その中にも必ず神様の計画、御心があるということが聖書のメッセージです。祈りつつみことばを聞き、私たちに対する御心は何なのか、今週それに心を留めたいと思います。また、私たちは聖霊を悲しませない歩みをしていきたいと思います(エペソ43032)。神様を信じた時、聖霊が私たちの内に住んで下さいます。それは私たちの心の思いを神がすべてご存じだということです。私たちの汚い思いに対し、聖霊は悲しむと聖書に書かれています。サウルは名誉欲によって無慈悲、憤り、怒り、ののしる者になっていました。聖霊はどれほどこのことを悲しまれたでしょうか。そしてこのような内側の思いが、私たちが神様の御心を行う邪魔をするのです。私たちは悔い改めつつ、自分に対する神様の御心、ご計画は何なのか、聖霊は求めれば必ず教えて下さるという確信を持って、今週私たちが行うべきことにいそしんでいきたいと思います。

 

天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。私たちが過去にどのような罪を犯したとしても、イエス様を信じる者には必ず聖霊が内に住んで下さいます。私たちは聖霊を悲しませないように常に悔い改め、自分の思いを整えていくことができますように。神と人を愛するという、私たちの最も大切な目的に生きることができますように、どうか助けて下さい。(202188日礼拝 武田遣嗣牧師)