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全てが明らかになる日 サムエル記第一20章1~11節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 20 ]

20:1 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」

20:2 ヨナタンは彼に言った。「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」

20:3 ダビデはなおも誓って言った。「父上は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」

20:4 ヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」

20:5 ダビデはヨナタンに言った。「明日はちょうど新月祭で、私は王と一緒に食事の席に着かなければなりません。でも、私を行かせて、三日目の夕方まで、野に隠れさせてください。

20:6 もし、父上が私のことをとがめたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえを献げることになっているからです』と。

20:7 もし父上が『良し』とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。

20:8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。【主】に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして父上のところにまで、私を連れ出す必要があるでしょうか。」

20:9 ヨナタンは言った。「とんでもないことです。父があなたに害を加える決心をしていることが確かに分かったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」

20:10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が厳しい返事をなさったら、だれが私に知らせてくださいますか。」

20:11 ヨナタンはダビデに言った。「野に出ましょう。」それで、二人は野に出た。

 今日はサムエル記第一20章から、隣人に弱さを告白できる恵み、神様に罪を告白できる恵みについて共に学びましょう。

 ダビデはギブアからナヨテに逃げました。サウルと家来たちはダビデを追いかけてきましたが、神様はダビデを守って下さいました。ナヨテで一昼夜、裸で倒れたサウル、これは神様ではなく、自分の名誉を求めた者の末路でした。

 一方、ダビデはサウルが倒れている間に、ギブアに戻ってきました。それは、親友ヨナタンと再会するためです。ギブアにいれば、またサウルに命を狙われるかもしれません。しかしダビデは、自分が今抱えている困難や弱さを、率直にヨナタンに伝えたかったのです。鍵括弧の言葉を見ると(1)、疑問詞が連呼されています。つまり、ヨナタンに矢継ぎ早に質問をして、ダビデがヨナタンに迫っている様子がわかります。ダビデに対し、ヨナタンも率直に応じました(2)。サウル王は、ダビデ暗殺計画を息子ヨナタンには隠していました。ですからヨナタンは、ダビデの話を聞いてそれを否定したのです。意見のぶつかり合いは更に続き、ダビデは3節でも強い言葉を使っています。「主は生きておられます」は、旧約聖書において誓約をする前の一言で、この言葉のあとに誓ったことは必ず果たさないとされていました。ですから、絶対嘘をつくことができませんでした。ダビデは「ヨナタン信じてくれ、私は嘘なんてついていない」という強い思いで言っているわけです。そこでヨナタンは、本当にサウルがダビデを殺そうとしているのか確かめてみることにしました(4)。

 このように、ダビデは自分の弱さを率直に分かち合える友がいました。だから彼はサウルの憎しみに負けず、心も折れずに信仰生活を守ることができたのです。自分の弱さを認め、こんな弱い私も用いて下さる、こんな弱い私の内に働いて下さる神様を賛美する、これがクリスチャンの歩みではないでしょうか。私たちは周りの人に立派な姿を見せるということに、気を取られてはいないでしょうか。むしろ自分の弱さを告白して、弱さの内に現れる神様のすばらしさを互いに証し合う、私たちはそんな教会を目指したいと思います。

 さて、ヨナタンは父サウルがダビデを殺そうとしているのか、まだわかっていませんでした。そこで新月祭の時にサウルの本心を確かめることになりました(5)。サウルの心の罪は、自分の愛する息子や家来たちの前で明らかにされました。聖書は、私たち一人一人の罪がいずれ明らかになると教えています(最後の審判)。しかし、イエス様の十字架の救いを受け取っている者は、イエス様の十字架の死によってその代価が支払われているので、罪によって裁かれ、永遠の死に至ることはありません。ですから、最後の審判や後に続く天国への歩みは、クリスチャンにとって恐いものではなく、待ち望む時なのです。神様は、最後の審判までに私たちが自分の罪を告白し、神様を信じることを求めています。罪を告白することは全く悲しいことではなく、むしろ恵みです。サウルの悲惨は、自分の罪を告白できなかったことにありました。彼は、自分より名誉を受けているダビデへの憎しみを誰にも告白できませんでした。その憎しみはどんどん歪んでいき、彼を支配し、ダビデを殺そうとまでしました。私たちも自分の罪を神にも人にも告白できない時、それが少しずつ歪んでいってしまいます。ですから、罪を告白できるということは、神様からの恵みです。それは私たちの心の歪みを矯正して、私たちを神様の道に進ませるすばらしい方法なのです。

 天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。私たちは、どうしても人によく見られたいですし、熱心に思われたいものです。私の中にも大きなプライドがあることを認めます。しかしどうか、自分自身の心の現実を認める力を与えて下さい。そして今日、自分の救いをイエス様の救いにお委ねする決意ができますように。あなたに罪を告白しながら、罪がゆるされている恵みを感謝しながら、今週も歩ませて下さい。(2021815日礼拝 武田遣嗣牧師)