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犠牲を伴う愛 サムエル記第一20章12~24節

【新改訳2017】

Ⅰサム

20:12 ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、【主】にかけて誓います。明日かあさっての今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳に入れます。

20:13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、【主】がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。【主】が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。

20:14 もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、【主】の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。

20:15 しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。【主】がダビデの敵を地の面から一人残らず断たれるときにも。」

20:16 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「【主】がダビデの敵に血の責めを問われますように。」

20:17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。

20:18 ヨナタンはダビデに言った。「明日は新月祭です。あなたの席が空くので、あなたがいないことが分かるでしょう。

20:19 三日目に、日が暮れてから、あの事件の日に隠れた場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。

20:20 私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。

20:21 私が子どもを遣わして、『行って、矢を見つけて来い』と言い、もし子どもに『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い』と言ったら、出て来てください。【主】は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。

20:22 しかし、私が少年に『それ、矢はおまえの向こう側だ』と言ったら、行ってください。【主】があなたを去らせるのです。

20:23 私とあなたが交わしたことばについては、【主】が私とあなたの間の永遠の証人です。」

20:24 ダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。

 ヨナタンはダビデと、自分に不利な契約を交わしました(13)。もしダビデが無事に逃げられなかったら、ヨナタンが罰せられるという契約です。一方この契約には、ヨナタンにもメリットのある内容が含まれていました(15)。これは、ダビデが王になった暁には、ヨナタンの家族を大切にしてほしいという意味です。ヨナタンは、おそらく15節の時点でダビデが次期の王になることを予測していたのでしょう。実際ダビデは、王になった後もこの契約を覚えていて、ヨナタンの息子を大切に扱いました(Ⅱサム217)。ヨナタンは父親との良好な関係や王位を捨ててでも、ダビデを逃がそうとしました。今日のメッセージのタイトル通り、ヨナタンの愛は犠牲を伴う愛です。

 以上の話から、今日は二つのことを学びたいと思います。一つは犠牲を伴う愛、もう一つは契約を伴う愛についてです。

 ヨナタンの犠牲を伴う愛は、まさに神様の愛です(Ⅰヨハネ4910)。神様は私たちのために、独り子イエス様を世に遣わして下さいました。神様が天の王であれば、イエス様は天の王子でした。しかし王子としての在り方を捨てて、飼葉桶に人間として生まれて下さいました。人間となったイエス様は、私たちと同じように喉が渇き、おなかがすき、人の罵声や噂話に耐え、人の死に涙しなければなりませんでした。そして十字架によって、常人が一生で受けるよりはるかに大きい痛みや恥、悲しみを経験され、死なれました。もしイエス様が天から人を見下ろすだけの神様なら、痛みも恥も悲しみも経験する必要はありませんでした。しかし私たちが永遠のいのちを得るために、イエス様は犠牲を払って下さいました。またヨナタンが父との良好な関係を捨てなければならなかったように、イエス様も父なる神様との関係を捨てなければなりませんでした。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか(マタイ2746)」は、父と子の関係が断絶されたことを示しています。信じる神がいないという孤独を、イエス様はここで経験されました。そしてそれは、本当は罪のある私たちが経験すべきものでした。このように地位や立場、父との関係を犠牲にしても私たちを愛し、救いたいと思っておられる神様が、この世界を治めておられるのです。このことに、私たちはどれほど感謝しているでしょうか。

 次に、契約を伴う愛についてお話しします。Ⅰコリ1125にある「新しい契約」とは、私たちが神様を信じるなら、必ず罪から救い出して下さるという契約です。私たちは信仰者になっても、勿論罪を犯すことがあります。罪を犯したとしても、私たちが神様を信じて悔い改めるなら、私たちから救いが取り去られることはありません。契約に基づく愛には安心感があります。但し、感情に基づく愛は不安定です。私たちと神様との関係は契約関係で、簡単には揺るぎません。

 今日はヨナタンが犠牲と契約を伴う愛で、ダビデを愛したことを学びました。そして私たちの神様も、犠牲と契約を伴う愛で、私たち一人一人を愛して下さっています。このことを心から感謝して、今週一週間を歩んでいきたいと思います。

 

 天の父なる神様、神様の愛は大きいだけではなく永遠です。私たちは今日の自分は駄目だった、と思うことがあります。しかし私たちの小さな信仰を見て、私たちを見捨てず今日も愛して下さることを感謝します。あなたに愛されていることを、みことばと祈り、交わりを通し、もっと知ることができる一週間として下さい。(202195日礼拝 武田遣嗣牧師)