· 

教会の使命 使徒の働き1章8節

【新改訳2017】

使 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 

 教会には、神様から与えられた使命が四つあります。

第一は伝道です。私たちにはイエス様の愛、この世界を創造された神様が、小さな私たちを愛して下さっている、このことを伝える使命があります(マタイ281620)。この大伝道命令は、イエス様から弟子たちへの命令です。しかし、弟子たちは敗北と弱さを経験していました。弟子たちはイエス様が十字架にかかるまで、私はイエス様を裏切らないと豪語していたのに、イエス様が捕らえられると一目散に逃げてしまいました。イエス様は孤独の中で十字架にかかり、死ななければなりませんでした。2817は「イエスを見て礼拝した」と訳すこともできます。弟子たちは自分の罪故にイエス様に近づくことさえできず、イエス様を見たらただ首を垂れ、礼拝するしかなかったのではないでしょうか。するとイエス様の方から弟子たちに近づいて、大伝道命令をされたのです。この命令は、敗北感、弱さ、罪を抱えた弟子たちに対するものでした。皆さんもイエス様の救いを知りながら、家族や友人への伝道に敗北感を持っておられるかもしれません。しかし私たちが心に留めたいのは、イエス様は敗北感と弱さ、罪を抱えた弟子たちに大伝道命令をされたということです。イエス様は、今日も皆さんに期待しておられます。私たちは、主が今日も伝道の力を与えて下さると信じて、この使命に向かっていければと思います。また、イエス様は地上を離れる直前にも伝道について語られました(使徒18)。ですから私たちは、伝道を教会の使命として取り組んでいかなければならないでしょう。

第二は建徳です。つまり、互いに励ましあったり、互いの成長に役立つ言葉をかけることです。徳をどのように建てあげていくのか、一つ目の方法は交わり(コイノニア、共有する)です(Ⅰコリ1226)。教会は、一人の人の苦しみや喜びを皆で共有する共同体です。
二つ目の方法は指導や教えです(コロサイ316)。神様のことばが互いの心に住むように、互いに教え合うことが必要です。それぞれがイエス様に倣って、謙遜な気持ちを持たなければならないでしょう。イエス様は建徳の模範でした。イエス様は、弟ラザロを亡くしたマルタとマリアに、それぞれ適切なことばをかけ励ましました(ヨハネ112535)。私たちはどれくらい吟味して、自分の言葉を用いているでしょうか。

第三は礼拝です(詩4610)。礼拝するということばは、聖書の原語では「止める」という意味があります。止めて神様のことを知る、これが礼拝です。ですから私たちは礼拝に来る時、すべてを中断しなければなりません。礼拝のもう一つの意味は、「神を神とする」ことです。私たちが何かを止められない時、自分で自分の人生を握っているような気持ちになることが多いものです。しかし私たちが礼拝の中で神を神とするなら、私よりも遥かに大きな存在が私の人生を導いて下さる、という平安の中で歩むことができます。

以上三つの使命は、バランスがとれていなければなりません。例えば伝道を強調し、新来会者が来ない礼拝は意味がないと考えるのはいき過ぎですし、交わりだけを強調しすぎると馴れ合いになってしまいます。皆さんには、那珂湊教会がこの三つの使命のうちどれに取り組むべきなのか、考えていただきたいと思います。

第四は社会的関心です。イエス様は「サマリヤ人のたとえ」(ルカ102537)を通して、自分の共同体の外にいる人も愛するように教えられました。社会的関心とは、愛と思いやりをキリスト者以外の人に実行することです。エリクソンは、社会的関心は礼拝、建徳、伝道という使命全てに関わっていると言いました。例えば礼拝において、キリスト者ではない方がいつ来られてもいいように礼拝を準備する、またキリスト者でない方が教会の交わりの中に入っていける雰囲気がある、伝道において愛と救いを語るだけでなく、キリスト者以外の方を愛する行為も一緒に行う、これらは社会的関心の使命を果たしていることになります。

最後に自分自身に問いかけて終わります。私は四つの使命のうち、どれに取り組むべきだろうかと。

 

天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。私たちは毎週ここに集まるだけではなく、神様から使命を与えられていることを学びました。どうか今、重きを置くべき使命を私たちに示して下さい。そして、私たちの教会が主の御心のままに進んで行くことができますように助けて下さい。(2021912日礼拝 武田遣嗣牧師)