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隠していた罪からの解放 サムエル記第一20章25~34節

【新改訳2017】

Ⅰサム

20:25 王は、いつものように自分の席、つまり壁寄りの席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの席は空いていた。

20:26 しかし、その日、サウルは何も言わなかった。「思わぬことが起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう」と思ったからであった。

20:27 しかし、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデの席は空いていた。サウルは息子のヨナタンに言った。「どうしてエッサイの子は、昨日も今日も食事に来なかったのか。」

20:28 ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。

20:29 『どうか、私を行かせてください。氏族の祝宴がその町であります。長兄が命じているのです。今、あなたのご好意を得ているなら、どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください』と言ったのです。それで彼は王の食卓に来ていないのです。」

20:30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。

20:31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」

20:32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」

20:33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。

20:34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。

 ヨナタンがどのように父サウルの心意を確かめたのか、そして暴かれたサウルの本心とは如何に、というのが今日のお話です。

 新月祭の食事会で、ダビデの席は空いていました。ダビデがこの食事会に来ないのは当然です。のこのこと行けば、サウルに殺されてしまうからです。サウルは息子にダビデへの殺意を隠していたので、ヨナタンに何も知らないかのように問いかけました(27)。しかしこの後のヨナタンの一言で、サウルが隠していた罪が明らかにされます。

 ヨナタンは、ダビデが自分の氏族の祝宴のために故郷に帰ったと説明しました。何気ないようですが、これはサウルへの挑発の言葉なのです。第一に、ヨナタンはサウルの許可なしにダビデを帰しました。サウルから見れば、自分を無視して判断したヨナタンに怒りを覚えたでしょう。第二に、ダビデが長兄をサウルより優先したことです。サウルは自分が下に見られるとか、自分の権威が否定されることを最も嫌っていたました。このヨナタンの挑発によって、サウルの本心が露わになっていきます。30節はイスラエル人が人を侮辱する決まり文句です。王が言うべきではない汚い言葉に、ヨナタンは驚いたでしょう。しかもサウルが内に隠していた罪は、息子ヨナタンを殺そうとするほど大きなものでした(3233)。

 神学者ミラード・エリクソンは、私たちの内にある罪が対人関係にどういう影響をもたらすのかについて、三つのポイントを挙げています。第一は、争うようになることです。罪は私たちを自己中心にし、自分に益があれば良い人、邪魔なら悪い人と見なすようになっていきます。このような人は正義の判断基準が狂い、周りに争いを生むようになります。私たちの正義の判断基準は、常に聖書でなければなりません。

 第二に、共感する能力が欠如していきます。つまり、自分の視点だけで物事を見ようとし、相手の気持ちに共感することができなくなってしまいます。

 第三に、愛する能力が欠如するようになります。聖書が私たちに教えている最も重要な教えは、神と人を青することですが、罪はそれとは正反対の方向に私たちを引っ張っていくのです。聖書は、私たちが無意識のうちに隠してしまっている罪と向き合わないなら、罪が私たちをこのような状態にすると主張しています。

 では私たちは、どのように罪に対処すればいいでしょうか。一つ目は悔い改めです(ヨハネ19。祈りの中で罪を告白することは、とても勇気がいることです。なぜなら、今日学んでいるように、私たちは無意識のうちに罪を隠しているからです。また、悔い改めるということばは、ギリシャ語で向き直すという意味であり、実際に自分の心を変革しなければなりません。それなら罪に触れないようにしよう、というのが普通の反応だと思います。しかし聖書は、悔い改めなさい、神の国が近づいたからと記しています。聖書の悔い改めは、自分一人が反省するのではありません。私たちの心を変革できる神様への信頼を根拠にして、自分の罪を告白するからです。私たちは、自分の力だけで自分の罪と戦う必要はないのです。信仰者は神様と共に自分の心を変革できる、これは何と幸いなことでしょう。

 二つ目は、イエス様に倣うことです(Ⅰヨハネ41011)。イエス様は自己中心から人と争うことはしませんでした。むしろ争いから降りて十字架にかかり、敗北者のようになられました。そして十字架上で母マリアのことを心配され、自分を罵倒する民衆や権力者を愛しました。私たちが罪によって自己中心になり、人を敵対視するようになった時、私たちは冷静さを失い、罪の奴隷となってしまうかもしれません。しかしそんな時、十字架上のイエス様に心を留めれば、どれだけ罪の思いを抑えることができるでしょうか。今週もイエス様から目を離さず、イエス様に倣う歩みをしていければと思います。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。私たちにもずっと心の重荷になっていたけれど、神様に告白できていなかった罪があります。口に出すのもこわかった罪があります。しかし今日のみことばを通して、私たちはその罪と向き合わなければならないことを教えられました。向き合わずに、それを恐れてそのままにしておくことは、罪の奴隷になることと同じです。私たちが罪を隠す歩みではなく、罪に向き合いイエス様のゆるしを受け取り続ける歩みをしていく勇気をお与えください。(2021919日礼拝 武田遣嗣牧師)