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神の国を受け入れる マルコの福音書10章13~16節

【新改訳2017】

マル

10:13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。

10:14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」

10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

 今日は二つのことを学びましょう。一つは、子どもを大切にすることです。もう一つは、子どもを模範にすることです。

 人々が子どもたちをイエス様のもとに連れてきました。イエス様に、祝福の祈りをしてほしかったからです。しかし弟子たちは子どもたちを遮って、𠮟りつけました。イエス様の周りには人生に悩み、病に苦しむ人々が集まっていて、イエス様は子どもではなく、彼らのケアに集中すべきだと考えたからでしょう。それに対し、イエス様は憤った(14)と書かれています。ここから示されていることは、私たちは子どもたちを大切にしなければならないということです。今日、子どもたちは礼拝の前半に参加しましたが、皆さんは彼らの成長を願いつつ、イエス様のもとに子どもたちを押していくような気持で、子どもと一緒の礼拝に参加していただきたいと思います。

 次に、子どもを模範にすることについてです(1516)。神の国とは一言で言うと、天国のことです。イエス様はここで、天国に入る者の特徴を話しました。それは子どものようであることです。良い行いや祈り、献金をたくさんすれば、聖書をたくさん読めば神の国に入れると思うのが普通ではないでしょうか。しかしイエス様は、まだ知識も経験もない子どもこそ、神の国にふさわしいと主張したのです。私たちは子どもから何を学べばよいのか、今日はその一つをお話ししたいと思います。私たちは子どもから、ひたすらに愛を求めるということを学べます。イエス様の時代のイスラエルの人々は、良いことをすれば、聖書の約束を守れば、神様は愛してくれる、自分たちは良いことをたくさんしているのだから神様に愛されていると考えていました。一方、子どもの行いは素晴らしいとは言えません。食事をこぼしたり、走り回ったりします。でも子どもはそんな行いとは関係なく、ひたすらに親の愛を求めます。聖書は、神の愛は無条件の愛だと教えています。私たちが先週どんな罪を犯したとしても、神の愛は変わりません。今週も、神様は私たちを見捨ててはおられません。子どもたちがいつも親を求めるように、私たちも父なる神様にいつでも祈り、みことばに心を留める者でありたいと思います。

 この「ひたすら神を求める」ことについて、もう少し掘り下げたいと思います。金持ちの青年の話(101727)は、今日の箇所と深い関連性があります。この青年は、幼いころから聖書の教えを守ってきたことを自負し、金持ちでした。彼と子どもたちは非常に対照的です。子どもたちには功績もお金もありません。イエス様は子どもたちを見て、神の国はこのような者たちのものですと言いました。しかし金持ちの青年が去った後、イエス様は弟子たちに「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう」と言いました。おそらく青年は、自分はお金に恵まれ、今までこれほど良い行いをしてきたのだから、神様は自分を愛しているに違いないと考えていたでしょう。しかし、彼の考えはとても危ないです。なぜなら、もしこの青年がお金を失って、その功績が取り去られた時、こんな私を神様は愛してくれないと考えてしまうからです。つまり有頂天と自暴自棄を繰り返す、不安定な歩みをするようになってしまいます。子どものように自分の行いや所有物に依存せずに、どんな時にも神の愛を求め、受け取っていく者が神の国にふさわしい者なのです。

 私はこの一か月、外部の奉仕に奔走し、静まって祈ったり、みことばを読んだり、神様の愛を求め感じる時間が少なかったと思いました。昨日仕事が一段落したのですが、何ともむなしい気持ちになりました。自分の行いで自分を救おうと考えていたからかもしれません。しかし私が自分の行いに依存している間も、神様はずっと私にご自身の愛を示そうと思われていたはずです。今朝、ある信仰書のことば(あなたが休んでいる間も、主は働いて下さる)が私の心に響きました。私は自分が仕事を中断して神様の愛を求める時、自分の行いではなく私の思いを超えて働かれる神様に、人生を委ねることができるのだと思います。皆さんの中に、仕事を中断したり、何か思い煩いはあるけれど礼拝に来た方がいらっしゃるかもしれません。私たちが今礼拝の中でとどまっている間も、神様は働いて下さる、その信仰が私たちにあるでしょうか。神様は、皆さんがありのままに叫んで、愛と救いを求めるその時を待っておられます。ですから今週、勇気をもって神の愛を受け取る時間を持ってみましょう。そして、子どものように神様のもとへいく者でありたいと思います。

 

 天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。それぞれが忙しい日々を過ごしていますが、イエス様は私たち一人一人に、ご自身のもとに来て休み、神の愛を受け取ることを望んでおられます。どうぞ私たちがすべての仕事を止めて、すべてを神様に委ねて、神様の愛を受け取る時間を今週持つことができますように助けて下さい。私たちがどんな罪人であろうと、神様は私たちを愛して下さっていることを心から感謝いたします。(2021105日礼拝 武田遣嗣牧師)