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主の民は歌う 出エジプト記15章1~3節

【新改訳2017】

[ 15 ]

15:1 そのとき、モーセとイスラエルの子らは、【主】に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「【主】に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。

15:2 【主】は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。

15:3 【主】はいくさびと。その御名は【主】。

 

ヘブル

2:12 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」

 今日は礼拝と讃美について、三つのことを皆さんとお分かちしたいと思います。

 第一は、神様を知り続けることです。今日の箇所は、イスラエルの民がモーセに率いられてユダヤの地に戻る途中で起きた記事です。彼らが海に阻まれた時、神の奇跡が起きて水が割れ、民たちはそこを渡りました。この歌は、海を渡った後で歌われた歌です。私が今日ここを開いたのは、これが聖書の中に出てくる最初の讃美歌である可能性が大きいからです。「ほめ歌」(2)は「讃美」(申命記1021)と同じことばです。聖書は、古代のユダヤ人たちが神様に向って歌うという行為を「讃美」ということばで表現しています。原語を見ると、「ほめる、感謝する、祝福する、讃美する、歌う、叫ぶ、喜び楽しむ」など、色々なバリエーションのあることばが「讃美」と書かれていることがわかります。皆さんご存じのように、旧約聖書の詩篇(テヒリーム)は賛美(テヒラー)の複数形に当たります。ですから、詩篇は讃美歌集という意味になります。讃美と言うと、狭い意味では神様をほめたたえることですが、もう少し大きく見ると、私たちの信仰告白や神様への投げかけ、感謝、願いなどが合わさって、深い多様な歌を信仰者たちが歌ってきたことがわかります。

さて、1513は歌だということはわかりますが、彼らはなぜ歌ったのでしょうか。イスラエルの民は、この体験を通して神の存在を知りました。それだけでなく、神様の救い、みわざを経験しました。即ち、讃美は私たちの中から自然発生的に出てくるのではなく、神様の存在と体験を知ることが動機になっているのです。聖書の最初の讃美歌から、私たちは神様を知り続けていくということに目を留めるべきだと思います。

第二は、共に歌うことです。共に歌い続けるとは必ずしも上手に歌うことではなく、もっと内的なことであり、教会が一つであることを表し続けていくことだと思います。教会は、歴史の中で常に歌を生み出してきました。私たちが歌っている讃美歌の多くは宗教改革後、プロテスタントの教会で生まれました。これは当たり前のようですが、古代から中世のカトリックの時代には皆が一緒に歌い(歌え)ませんでした。読み書きができる人が少なかったからです。ですから、当時の礼拝生活は受動的でした。それが宗教改革により、自分の言葉で讃美歌を歌う動きが出てきて、讃美歌は以来ずっと作られ続けています。

讃美歌122番を開いて下さい。一人はアイザック・ウオッツです。詩篇は字数や韻が揃ったものではなく朗唱でしが、皆で歌うために韻の揃ったものが出てきました。これが宗教改革の最初(百年間)です。その後、新しい歌、自分たちの信仰の告白を歌おうという動きが起きてきて、その先駆けとなったのがウオッツです。彼の讃美歌は客観的で、啓示的(聖書のメッセージがそのまま表れる)で、英国では詩篇歌の次に現れた最初の創作讃美歌としてとても教会の助けになり、歌われるようになりました。

次に328番を開いて下さい。これはチャールズ・ウェスレーの作品です。彼は六千曲以上の讃美歌を書き、兄ジョン・ウェスレーの伝道を支えたと言われています。彼はウオッツとは対照的で、罪人に悔い改めを勧める投げかけや祈り、救われた罪人がキリストの御姿に似るように勧める投げかけを讃美歌に表しました。ですから、英国にとってウオッツの厳格な讃美歌とウェスレーの祈りの讃美歌はどちらが良い悪いではなく、教会の讃美の豊かさの表れとして歓迎され、補完的な意味があったと言えるかもしれません。まさに、私たちが神様にささげる賛美の中に色々な要素があることに気が付きます。ですから賛美には、豊かさの中に私たちの教会の主にある自由が表されていくことが求められているのではないかと思います。神様に捧げるということを少し具体的に言うと、讃美、ほめる、感謝も歌います。願い、悔い改め、嘆きもあります。証や伝道、宣教を歌うこともあります。それぞれの教会がその豊かさの中で育まれて、礼拝と讃美を求め、築き続けていただきたいと思います。そのような働きのために2005年、福音讃美歌協会が設立されました。

また、共に歌うこと、これは息の長い取り組みです。実際に音楽面の訓練も必要になるでしょう。礼拝奉仕者が教会の中で礼拝についての思いを共有し、互いに理解し合えるようなプロセスそのものが神様への奉仕であると思います。

第三は、神様への讃美の心強い助け手についてお話をしたいと思います。ヘブル212では、イエス様の救いに心を留めるという大きな文脈の中で、多くの子らを栄光に導くためにイエス様が苦しまれた、そのイエス様がとりなして下さると語っています。「わたし」はイエス様です。教会の課題と言うとどうしようと思いますが、救われた私たちは共にこのイエス様の導きの中にいるのです。音楽家として違う表現をするなら、主イエスが今、私たちと共に歌っていて下さるということです。皆さんはこのことを想像したことがありますか。礼拝で讃美歌を歌う時、イエス様が常に共にいて下さる、これは私たちの讃美への取り組みに対し、本当に心強い助け手であると思います。

今日は、「主の民は歌う」という題でお話をさせていただきました。主の民は歌うのを止めません。なぜなら、歌われるお方を私たちはすでに知っており、知り続けていくからです。心の中は歌えないという時があるかもしれませんが、そんな時、イエス様が共に歌って下さると知っていることは、大きな励みではないでしょうか。

 

ご在天の主よ、今日の時をありがとうございます。あなたの主の民があなたの存在とみわざの前に応答し、あなたを讃美したように、どうぞ私たちもあなたを知り続け、私たちの中にあなたが讃美の歌をひき起こして下さるようにお願いいたします。教会には具体的な課題があります。でも色々な課題の中で共に歌うということを表していくことを止めず、取り組んでいけるように助けて下さい。そこに共にとりなし、私たちの思いを父なる神に向けて下さる、私たちと共に歌って下さるイエス様がおられることをいつも覚えさせて下さい。(20211010日礼拝 植木紀夫先生)