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「愛と契約に基づく人間関係」サムエル記第一20章35~42節

【新改訳2017】

Ⅰサム

20:35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。

20:36 そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。

20:37 子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」

20:38 ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。

20:39 子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。

20:40 ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。

20:41 子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。

20:42 ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『【主】が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、【主】の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。

 

 なぜダビデとヨナタンが深い友情を結ぶことができたのか、それは彼らが契約を結んでいたからです(317)。彼らはお互い愛しているが故に、この先何があっても愛し合うという契約を結んでいます。そしてこの契約が二人の関係性をより豊かにしていきました。契約と言うと、騙されて契約を結ばされた等、あまり良い印象を持っていない方もおられるかもしれません。しかし聖書は、契約は両者の関係を豊かにするものだと教えています。例えば、キリスト教の結婚式の中で「健やかな時も病める時も..」と誓約をしますが、これは結婚する二人を縛るためではなく。二人の関係を豊かにするものなのです。

 さて、ここで三人の人物(サウル、ダビデ、ヨナタン)の関係を振り返ってみましょう。サウルは、自分より人気のあるダビデを妬み、殺そうとしていました。これを知ったダビデは、ヨナタンに助けを求めました。ヨナタンはまずサウルの本心を確かめ、サウルの殺意が明らかになったので、野原に隠れているダビデにこれを知らせようとします。ここからが今日の箇所です。

 ヨナタンが対面でダビデに会うのは危険すぎました。サウルの家来がヨナタンをつけているかもしれないからです。ですから、ヨナタンは予め合図を決め(2122)、作戦通りダビデに危険を知らせました(3738)。ダビデはすぐに国外に逃亡しなければなりません。さもないとサウルに殺されてしまいます。しかしダビデは、危険を冒してまでもヨナタンに会って言葉を交わすことを望みました。だからこそ、二人の友情関係は聖書中、深いものだと言われているわけです。そして二人は互いに最後まで愛し合うという契約を確認し、ダビデは国外へ、ヨナタンは町へ帰って行きました(42)。

 これは、冒頭でお話ししたキリスト教結婚式の誓約に似ています。これも今だけでなく、将来何があっても互いに愛し続けるということを誓っています。では、なぜこのような契約が必要なのでしょうか。それは互いのありのままを受け入れるためです。結婚する時、男女は共に背伸びをします。男性は頼りがいのある夫を、女性はしとやかな妻を演じるのではないでしょうか。しかしそのうち化けの皮がはがれ、互いに幻滅する部分を見つけてしまうものです。でも何があっても互いに愛し合うという契約があるからこそ、私たちは安心して互いにありのままをさらけ出すことができ、取り繕わない本当の愛が始まるのです。

 最後に、神様と信仰者の関係も契約関係です。古い契約(出エジプト195)では、もし人が神様に聞き従うなら、神様は人を救うという約束でした。ただしこの契約では人は救われません。人は神様に対し、罪を犯してしまうからです。旧約聖書は人が神様を裏切ってきた歴史です。しかし神様は人間などどうでも良いとは思われず、私たちのことを愛して新しい契約を結んで下さいました(ルカ2220)。新約聖書では、契約と血ということばがセットになって出てくることが多いです。なぜなら、新しい契約はイエス・キリストの十字架の血によって勝ち取られたものだからです。イエス様が私たちのすべての罪の身代わりとなって血を流して死んで下さった、もしイエス・キリストを信じるのであれば、私たちは罪によって死ぬことはありません。これが新しい契約です。イエス様を信じているのなら、私たちは神様と新しい契約を結んでいるのです。そしてとヨナタンの契約は、互いに愛し合うための契約でした。神様が私たちと契約を結んだのは、私たちと愛し合うためです。また、新しい契約も簡単に切れるものではありません。だから私たちは今日まで罪を犯してきたにしても、悔い改めて神様との親しい関係を今日から始めることができます。今週、私たちは祈りやみことばを通して、神様との親しい関係性を味わい、喜ぶ歩みをしていきたいと思います。

 

 天の父なる神様、私たち信仰者を新しい契約の中に招いて下さったことをありがとうございます。それは私たち一人一人が神様と愛し合うための契約であることを、今日学びました。日常生活の中で、私たちは神様をどれほど中心に置いているでしょうか。神様を忘れたり、神様に委ねず自分の手足を動かすことに必死になることがあります。しかし一度手足を止め、神様と親しい交わりの時を持つことができますように。あのダビデとヨナタンのような関係を、私たちが神様と持つことができるように助けて下さい。今週も一人一人と共にいて下さい。(20211017日礼拝 武田遣嗣牧師)