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御言葉の帯剣 サムエル記第一21章1~9節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 21 ]

21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」

21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。

21:3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」

21:4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」

21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」

21:6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日【主】の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。

21:7 ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が【主】の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──

21:8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」

21:9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」

私たちは、日曜日を安息日として礼拝をささげています。今日はこの箇所から礼拝者の心得について、三つお話ししたいと思います。

第一は、必要は与えられると信じて礼拝することです。ダビデは、外国に逃げるために仲間の分も含め、食料を確保することが必要でした。ダビデが向かった先は、ノブという町でした。この町は別名「祭司の町」と呼ばれ、神様に仕える祭司がたくさん住んでいました。その中の一人、アヒメレクがダビデを迎えました(1)。「震え」は、神に遣わされた人を迎える緊張感を表しています。ところで、ダビデはここでアヒメレクに嘘をつきました(23)。ダビデは本当はサウルに命を狙われているのに、アヒメレクにそれを隠したのです。アヒメレクはサウルの側近アヒヤの兄弟で、ダビデは彼がサウル側の人間ではないかと疑っていたからです。ここまで、ダビデはゴリアテを倒し、戦果をあげ、友情に厚い、ある意味完璧な人物として書かれてきました。しかし外国に逃亡するという困難の中、彼の臆病さや罪が露呈されています。こんなダビデに対して、神様は必要な物(パン、剣)を与えられました。安息日の恵みが嘘をついたダビデにも与えられていることに、私たちは心を留めたいと思います。私たちも今日、罪人のまま礼拝の場に来たかもしれません。しかし神様は今日、恵みを与えて下さる、罪を悔い改めたら、今週必要な物すべてを与えて下さると確信して礼拝に出たいと思います。

第二は、神への愛を持って礼拝することです(6)。臨在のパンとは、安息日ごとに神様に捧げるパンのことで、夕方には取り下げられ、祭司しか食べることができませんでした。しかし、アヒメレクは安息日のきまりや義務で動く人ではなかったようです。ダビデは神様に遣わされているという確信のもとに、ダビデにこのパンを与えました。また、ダビデの動機(仲間のためにパンが欲しい)も義務やきまりではなく、愛によるものでした。イエス様は、神や人を愛することではなく、聖書のきまりを守ること自体を目的とするパリサイ人に対し、この箇所を引用されました(ルカ615)。私たちはクリスチャンだから、習慣だから礼拝をささげていないでしょうか。礼拝を通し、神様を愛する気持ちがあるでしょうか。交わりを通し、人を愛する気持ちがあるでしょうか。

第三は、与えられたみことばの剣を研ぐことです(89)。ダビデがゴリアテを倒した時の剣は一度使用していますし、あの戦いから何年もたっているので、あまり良い剣とは言えません。しかしダビデは、それにまさるものはないと答えました。なぜなら、この剣は神様の力を象徴するものだからです。

さて、礼拝は基本的に与えられるものではなく、ささげるものです。ただし私たちに新たにあたえられるものがあります。それはみことばです。聖書を何ページも読むことも大切ですが、僅か数節を一週間かけて読むという読み方も大切だと思います。なぜなら、みことばがただの知識から、自分の生活の血となり肉となるまでに時間がかかることが多いからです。私たちは今日のみことば(19)を一週間しっかりと黙想し、自分に何が語られているのかというところから始めていきましょう。そうすると、みことばはあのダビデの剣のように、私たちの心の深い所を支えてくれるでしょう。神様から与えられたみことばの剣を一週間研いで、ダビデのように「それにまさるものはありません」と告白したいと思います(エペソ617)。

 

天の父なる神様、御名を崇め讃美いたします。今週も週の初めにみことばを与えて下さってありがとうございます。どうぞ、私たちがそれを心の中で思い巡らし、自分自身に適用し、この一週間あなたに支えられて歩むことができますように助けて下さい。私たちの人生が、自分の思いで全て決定してしまうようなものではなく、神様のみことばに聞きつつ、自分の人生の意味・目的が何なのか問いながら歩むものとなりますように。(20211024日礼拝 武田遣嗣牧師)