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主は私の羊飼い 詩篇23篇1~6節

【新改訳2017】

[ 23 ]

<ダビデの賛歌。>

 

23:1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。

23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。

この詩篇の舞台であるイスラエルという国は、半年間(春~秋)ほとんど雨が降りません。ですから羊の食べる草が少なく、羊飼いは荒野を旅してそれを探さなければなりません。この詩篇の作者ダビデは、人生は荒野だけれど羊飼いなる神様がその荒野を共に歩んで下さる、だから乏しいことがないと語り出します(1)。

 次に、神様は私たちの肉体と心を守って下さると書いています(23)。羊飼いが羊を緑の牧場に伏させるのは、草を食べさせ羊に力を得させるためです。「いこいのみぎわ」とは水際のことです。羊飼いが羊を水際に導くのは、水を飲ませ羊が元気を得るためです。私たちには、宗教は人間の心だけを安定させるというイメージがあるかもしれません。しかし作者は、聖書の神様は私たちの日々の食物や健康といった肉体の部分を養って、守って下さる方であることを告白しています。また、「たましい」(3)ということばは原語ではネフェシュ」ということばで、心、いのちとも訳され、人間の根源を意味しています。たましいの絶望から私たちを生き返らせる方が私たちの神である、と告白しているわけです。創世記27「生きるもの」にもネフェシュが使われていますが、神様の息が吹き込まれて私たち人間は「生きるもの」となります。つまり聖書は、神様が私たちに関わって下さらなければ、わたしたちのいのち(心)を正常に保つことはできないと教えているのです。私たちの心には神様のかたちをした穴があり、私たちはその穴を満たすために趣味や色々な人間関係を求めたりしますが、それらでは満たすことができない、私たちの心の根源を満たす方(神様)以外、満たすことができない場所が私たちの内側にあります。

 4節に進みましょう。死の陰の谷を歩むとは、いつ死んでもおかしくない状況を指しています。当時のイスラエルでは、猛獣が谷を住処にしていました。そこを通るわけですから、いつ猛獣に襲われるかわかりません。いつこうなるかわからないという不安は、私たちを苦しめます。様々な不安が、私たちの心に支障をきたすのではないでしょうか。4節はダビデの経験だと思います。ダビデは長い間、死の陰の谷を歩みました。彼はサウル王にいつ殺されるかわからない状況でしたが、自分の体と心を守って下さる神様が共にいると信じていたので、この困難を乗り越えることができました。但しダビデも、常に「私は乏しいことがない」と告白できたわけではなかったと思います。サウルから逃げるために嘘をついたり、狂った奇人のふりをして死を免れたこともありました。しかし神様はダビデの心を何度も生き返らせ、正しい方向へ戻して下さいました。ダビデがサウルに命を狙われていた時、何度もサウルを殺すチャンスがありましたが、神様がダビデの心を守って下さったので、彼はサウルに復讐せず人生を歩むことができました。ダビデのような立派な信仰者でも、自分の心を自分で完全にコントロールすることは絶対にできません。私たちは心の問題について、神に頼るしかないのです。「むち」とは猛獣から羊を守るためのものです。私たちが日常生活において自分の敵に怯えている時、神様はご自分の偉大さを示されます。そして私たちは、どんなに恐ろしい敵もこの神様にはかなわないことを教えられます。また、「杖」は羊を正しい方向に先導するためのものです。私たちは自分の心の弱さによって路頭に迷うことがあります。しかし神様は、みことばの杖によって私たちを正しい方向に導いて下さいます。

 サウル王の死後も、ダビデの前に敵が現れました。しかし神様はダビデに、敵をよそに食卓を整え、喜びを与えられました(5)。もし私たちに敵対者がいたら、その人が近くにいなくてもその人の事ばかり考えて、心がすり減っていくのではないでしょうか。しかし5節を見ると、ダビデは敵をよそに神様との関係を楽しんでいたようです。そして、ダビデが神様との親しく交わる場所こそ礼拝でした。「主の家」(6)は、礼拝をする場所を指しています。ダビデにとって、礼拝をすることは大きな喜びでした。

 最後に礼拝について少しお話します。礼拝とは日常の戦いを止めて神様の前に出ることです。私たちは日常生活で戦い続けていると、次第に自分一人で戦っていると思うようになります。すると礼拝は時間の無駄だとか、礼拝に行かずにこの仕事をしようとか、違う趣味を楽しんだ方がいいという思考になっていきます。自分の力で自分を休ませよう、仕事を達成しようと思うでしょう。しかし私たちはやはり羊なのです。神様に導いていただくべき存在なのです。私たちは礼拝の時間を大切にしたいと思います。神様と私たちが親しい間柄になるということは、簡単なことではありません。罪は私たちと神様をひき離すものです。しかしイエス・キリストを主と信じるならば罪はゆるされ、神様と親しい関係に戻ることができます。そして私たちは、ダビデ以上の親しさをもって神様を「父よ」と呼ぶことができます。礼拝は、私たちが一人で戦っているのではないことを思い出させ、自分には乏しいことがないと告白する場所です。私たちは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と告白しつつ、人生の荒野を歩んで行きたいと思います。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。私たちの人生は良いことばかりではありません。しかし今日、人生の荒野を主が私たちと共に歩んで下さると教えられました。どうぞ、ここにいる一人一人がこの聖書の神様に結びつき、人生の荒野を喜びをもって歩んでいけますように助けて下さい。誘惑があっても、私たちを憎む敵がいたとしても、神様を信じる喜びが私たちから取り去られることはありません。どうぞ、この神様を信じて天国への道のりを歩んでいくことができますように助けて下さい。(20211114日礼拝 武田遣嗣牧師)

 

☆ 午後からトリオ・グラシアによるコンサートが行われました。