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真の愛 ヨハネの福音書3章16節

【新改訳2017】

ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

 このことばは、イエス様からニコデモに語られた一言です。ですから今日は二人の対話を見ながら16節に帰っていきたいと思います。

 まず、ニコデモは議員でした(1)。当時、ユダヤで議員は71人しかおらず、 議員になるためには、あらゆる知識に秀でていなければなりませんでした。ですからニコデモは非常に優秀な人であったことがわかります。しかも彼は謙虚な人でした。年配者でありながら、30歳のイエス様のことを先生と呼び、敬意を表しています。彼は、私たちが考え得る幸せになれそうなもの(富、地位、名誉など)すべてを持っていそうでした。但し、唯一彼が持っていないもの、それは天国に行く確信でした。自分が永遠のいのちを得られるのか知りたくて、夜イエス様を訪問したのでしょう。

 イエス様はニコデモの求めをよくわかっていて、天国に行く方法について彼にストレートに語り始めました(3)。ニコデモは唖然としたでしょう。恐らく彼は、自分の良い行いに何を加えたら天国に行けるのか、聞きたかったと思います。しかしイエス様の答えは、一度死んで新しく生まれなければ天国に行けないということでした。私たちは今までの罪を、多くの奉仕や献金で埋めることはできません。それを精算できるのは死だけである、と聖書は教えています。一度死んで新しく生まれる以外に方法はないのです。ニコデモには、自分の力でここまでのし上がったという自負があったでしょうから、自分の力で天国に行けないということを、簡単に受け入れられません(9)。このような文脈の中で、今日の中心聖句ヨハネ3:16が語られます。「世を愛された」とは、信仰者や特定の人だけを愛したのではありません。すべての人を愛したのです。そして独り子イエス様を世に送りました。イエス様の人生は臭い飼葉桶の中から始まり、最後には弟子に裏切られ、人々に馬鹿にされ、十字架にかかって死にました。すべての人が新しく生まれるために、最高の犠牲が払われたのです(ヨハネ15:3)。イエス様はニコデモに、善行ではなく信仰によって救われる道を示しました。

 私たちの罪深い「古い人」が十字架につけられて死ぬことにより、私たちは罪から解放され、キリストと共に生きるようになります(ローマ6:68)。救われた人の人生は、救われるために強制的に奉仕をする人生ではありません。救われた喜びの故に奉仕をすることが、クリスチャンの歩みです。

 最後に、三つの問いかけをしたいと思います。第一に、私たちは自分の正義ではなく、信仰によって天国に行こうとしているでしょうか。第二に、神の無条件の愛を信じているでしょうか。第三に、信仰者は自分を新しく生まれた者として認識しているでしょうか。アドベントとクリスマスが、心からイエス様の愛、救いを体験する時となりますように。

 

 天の父なる神様、ニコデモは新しく生まれなければ神の国を見ることはできない、という一言に悩み、それを受け入れることができませんでした。しかしイエス様が十字架にかかった後、ニコデモはイエス様の遺体を引き取りました。どうぞ私たちの心もニコデモのように、あなたの救いを受け入れることができるように、それを心から喜ぶことができるように変えて下さい。主よ、アドベントとクリスマスの時期に、イエス様の誕生を心から喜ぶことができるよう導いて下さい。(20211212日礼拝 武田遣嗣牧師)