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その憎しみは消え去る サムエル記第一24章1~7節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 24 ]

24:1 サウルがペリシテ人を追うのをやめて帰って来たとき、「ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいます」と言って、彼に告げる者がいた。

24:2 サウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭を選り抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。

24:3 道の傍らにある羊の群れの囲い場に来ると、そこに洞穴があった。サウルは用をたすために中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、その洞穴の奥の方に座っていた。

24:4 ダビデの部下はダビデに言った。「今日こそ、【主】があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」ダビデは立ち上がり、サウルの上着の裾を、こっそり切り取った。

24:5 後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。

24:6 彼は部下に言った。「私が【主】に逆らって、【主】に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は【主】に油注がれた方なのだから。」

24:7 ダビデはこのことで部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、洞穴から出て道を歩いて行った。

 

 サウルのダビデ追跡の道のりを辿るだけでも、サウルが如何にダビデを憎んでいたかがわかります。またサウルの憎しみの恐ろしさは、自分の憎しみは全うだと考えていたことです。サウルは自分に協力してくれた人には、主の祝福があるようにと声をかけ、まるで神様が自分の側にいるかのような態度でした。これは、憎み続ける人の大きな特徴だと思います。

 一方、ダビデは憎しみに支配されませんでした。サウルが用を足すために洞穴に入ると、奥にダビデ一行が隠れていました。ダビデにとって、これは千載一遇のチャンスです。当然ダビデの部下たちはサウルに襲いかかろうとしました。彼らの心にはサウルへの憎しみがあったのです。しかしダビデだけは、部下たちを制止しました(6)6節には主ということばが繰り返されています。ダビデは、神様が立てた王を殺めることはできないと考えていました。ダビデはここでサウルではなく、サウルを愛し、王にした神様に心を留めていたのです。私たちもダビデのように、どんな人も神様がつくられた尊い存在なのだという視点を持っているでしょうか。

 ここで、聖書の二つの人間観について考えてみましょう。第一は、人間は皆罪人であるということです。アダムとイブが善悪を知る木の実を食べて以来、人はすべて自己中心的な者になってしまいました。クリスチャンとは、自分自身にも自己中心的な罪の性質があることを認めて、日々悔い改める人です。宗教改革者ルターは、信仰者の全生涯は悔い改めであると言いました。自分の罪を認め、方向転換をし続ける人こそ、人を憎む思いから解放されていきます。

第二は、人間は皆尊いということです。これは誰でも口では認めていても、心の底では認めていないかもしれません。現代社会は人間を行いと結果ではかります。良い行いができない、結果を残せない人は自信を失い、死に追い込まれることもあります。しかし聖書は、すべての人は尊いと記しています。この二つの人間観は、私たちが憎しみに打ち勝てる大切なポイントです。

 さて、死はサウルのすぐそばまで来ていました。しかしサウルは命を救われたことに気づかず、揚々と洞穴から出て来ました。なぜかサウルと私が重なるような気がします。罪によって死ぬべきであったのに、神様に命を助けられたことを感謝できない、まるで神様のゆるしがなかったかのように人を憎む自分がいます。私たちが人をゆるすためには、神様にどれほどの罪をゆるされたのかをよく知ることが必要です(マタイ18:2330)。このたとえ話の中で、聖書は罪の自力返済は不可能だと教えています。王(神様)は家来(私たち)の罪をゆるしました。しかし、このゆるされた家来は、自分がお金を貸している仲間のことはゆるしませんでした。彼は自分がゆるされたことを全く感謝していなかったので、人を憎み、ゆるさない者になってしまいました。しかし、本当に神様のゆるしを受け取って感謝している人は、憎しみから解放されていくのです。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。今日の箇所で、サウル王もダビデの家来も憎しみに支配されていました。しかしダビデだけは神様に目を留め、憎しみの連鎖を断ち切ろうとしました。私たちもこの箇所のダビデのように、周りの人たちと平和を築いていけるように助けて下さい。イエス様の救いは、ここにいる全員に差し出されています。私たちが罪を悔い改め、イエス様を信じるなら、私たちの全ての罪はゆるされます。どうぞ、この救いを私たち一人一人が受け取って、私たちもまた人をゆるし、愛する者へと変えられていきますよう助けて下さい。(202226日礼拝 武田遣嗣牧師)