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神に委ねるとは サムエル記第一24章8~15節

【新改訳2017】

Ⅰサム

24:8 ダビデも洞穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。

24:9 そしてダビデはサウルに言った。「なぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のことばに、耳を傾けられるのですか。

24:10 今日、【主】が洞穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたの目はご覧になったのです。ある者はあなたを殺すようにと言ったのですが、私は、あなたのことを思って、『私の主君に手を下すことはしない。あの方は【主】に油注がれた方だから』と言いました。

24:11 わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着の裾をよくご覧ください。あなたの上着の裾を切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって、私の手に悪も背きもないことを、お分かりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私のいのちを取ろうと狙っておられるのです。

24:12 どうか、【主】が私とあなたの間をさばき、【主】が私のために、あなたに報いられますように。しかし、私はあなたを手にかけることはいたしません。

24:13 昔のことわざに『悪は悪者から出る』と言います。私はあなたを手にかけることはいたしません。

24:14 イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。だれを追いかけておられるのですか。死んだ犬の後でしょうか。一匹の蚤の後でしょうか。

24:15 どうか【主】が、さばき人となって私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて擁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」

 

 今日は憎しみへの対処の仕方について、ダビデから学んでいきましょう。

もしダビデが洞穴の中にずっと隠れていたら、サウルに見つかることはなかったでしょう。しかし彼はサウルと精鋭部隊の前に姿を現し、サウルに害を加える気がないことを伝え、証拠品まで見せました。これにより、サウルはダビデを捕える大義名分を失ってしまいました。サウルとダビデの部下は憎しみに支配されていたので、復讐ばかりに心が向いていました。しかしダビデだけは憎しみに支配されず、一滴も血を流さない、平和的解決に向けて知恵を絞っていました。私たちはダビデに倣わなければならないと思います。

 次に、神のさばきについてお話しします。ダビデが憎しみに支配されなかったのは、神のさばきがあることを知っていたからです。ダビデは、サウルへの憎しみや復讐心を神様に委ねていることがわかります(12、ローマ121921)。私たちには、憎しみや反骨精神が人生の原動力になっている時があります。しかしそれでは疲れやすく、不安定なものです。私たちは憎しみを神様に委ね、みことばから神様の愛を受け取って、神様の愛を原動力にしていく人生へと変えられていきたいと思います。聖書には、この世界の終わりに神のさばきがあると書かれています。すべての人は、例外なくそこに立たなければなりません。隠されていた全ての悪事、隠れていた良い行いもそこで明るみに出されます。でも神のさばきの時に、良い行いによって天国に行ける人は誰もいません。しかし二千年前、イエス様が人となって降りてこられ、私たちが受けるべきさばきを受けて下さいました。だからイエス様を信じる者はさばきを恐れる必要はない、というのが聖書の教える福音なのです(ヨハネ31617)。

 最後に、自分自身に問いかけてみましょう。第一に、私たちは神様に憎しみを委ねているでしょうか。説教の準備をしている時に気づかされたのは、私が人を憎んでいる時は、とても単純に人を評価しているということでした。性格が悪い、自己中心だなど一言で評価して相手を悪者に仕立て上げ、自分を正当化しているのです。しかし私たちが憎んでいる人は神様の作品であり、尊い部分をたくさん持っています。24章でダビデは、サウルのことを何度も「神に油注がれた者」と呼んでサウルを評価しています。私たちは憎しみに支配されて家族、友人、兄弟姉妹の良いところに目が開かれていない、ということはないでしょうか。

 第二に、平和をつくる者になるために、私たちは何をしたらよいでしょうか。私たちは今日の箇所で、ダビデが知恵と勇気を振り絞り、平和的解決をしたことを学びました。職場で、家庭で、私たちは平和をつくる者として歩みましょう。それは例えばみことばを贈ったり、毎週挨拶をしたり、小さなプレゼントをすることかもしれません。憎しみから解放され、平和をつくり出す者へ一人一人が成長していけますように。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。イエス様は神と人との平和、そして人と人との平和をつくるために十字架にかかって死んで下さいました。しかし、私たちは時に簡単に憎しみに支配され、平和をつくる者ではなくそれを打ち壊す者に変わってしまうことがあります。どうか私たちがイエス様のゆるしに心から感謝して、憎むのではなくゆるし愛する者へと変えられていきますように。また、神のさばきがあることを信じて、いつも平和をつくる良い行いに生きることができるように、今週も励まし支えて下さい。これから職場、家庭など色々なところに派遣されていきますが、そこで地の塩、世の光としてキリストのかおりを放つことができるように助けて下さい。(2022217日礼拝 武田遣嗣牧師)