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一生の友として 申命記17章18~20節

【新改訳2017】

17:18 その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、

17:19 自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。

17:20 それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、彼とその子孫がイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるようにするためである。

 今日の個所は王のための勧めですから、王のような役割を果たす時、どのように教えられていくべきかということで読んでいきたいと思います。

 さて、王の役割は二つあります。第一は、国を良く統治し繫栄させることです。羊飼いならば、羊を導いて美味しい草のある所へ連れて行って羊を養う働きがあります。第二は、外敵から守る戦いの先頭に立つことです。羊飼いなら、羊が狼や野獣に殺されないように夜番をし、守るという働きがあります。即ち、王に期待されているのは内側を豊かにしていくことと、外側からの攻撃から守ることだと思います。私たちもこの二つの働きは持っていると思います。例えば、SNS等で子供たちが外側から攻撃される時、親としてどう対処すればいいのか、守るという働きがあると思います。教会も同様です。気を緩ませると、私たちの信仰告白に合わない教えが入ってこようとします。それからどうやって守ればいいのか、それは一人一人の問題であると同時に、教会全体の問題として取り扱わなければならないと思います。もう一つの養うにおいても、両親なら子供たちに何を食べさせ、どういう風な教育を与えればよいのか、或いは自分の職場なら職場をもっと豊かにするために自分は何をすればよいのか心がけることは、私たちの日常生活だと思います。

 聖書は、必要なことは神様の教えであると言っています。そしていくつかの秘訣が記されています。第一は書き記すということです。「自分のために」とあるので(18)、自分の聖書です。王となった時、二つの働きをするためには、自分の手が届く所にみことばを置いておく必要があります。自分の聖書には、もう一つの側面があります。「この(みおしえ)」が示しているのは、1620節(王のために定められたみことば)のことだと思います。ですから聖書を読んで、これは神様が私に語られるみことばだとわかる、ということが先行しているのです。例えば私は毎朝聖書を読みますが、このことばに教えられたと感じた時、そのみことばは心に響いてきます。那珂湊教会の週報には今年のみことばが書かれていますが、これを一年間手元に置いて、絶えず繰り返しながら教会生活を送る、漫然と聖書を読むのではなく、私とみことばの関係をしっかり自覚することが大切なのです。前にもお勧めしたと思いますが、心に残った個所をノートに書いていくと、私たちの信仰生活の歩みがそこに投影されます。

 第二は、自分の手元に置いて、いつでも読める状態にしておくことです。聖書を読むことが特別なことではなく、日常生活の習慣となることです。聖書は礼拝の時のためではなく、日常生活のためにあります。「一生の間」(18)とは礼拝の時だけでなく、どちらかと言うとそれ以外の時が強いような印象を受けます。また、わかってもわからなくても、読み続けていくとわかってくることが沢山あります。そして聖書を読み継いでいくことは、天の御国に至る永遠の行為なのです(20)

 王は孤独なものです。王の周囲には腰を低くし、手を擦りながらへつらう人もいるでしょう。或いは、その人が王の前から離れた時、手のひらを返したように王を批判するかもしれません。王として日常生活を過ごす時、私たちが自分の家族や職場を守ろうとし、養おうと努力を重ねた時に、それが感謝として返るとは限りません。自分の思いがわかってもらえないことの方が多いです。特にリーダーシップをとる王の働きをした時、その人は孤独になります。私たちが神様の教えに従ってこの時代の中に、人々の中に生きていこうとする時、私たちが真剣になればなるほど聖書に向き合わなければ、私たちの心は正気を保てないでしょう。 疲れ果て、頽れてしまいます。王は夜、家来たちが退いてたった一人になった時、ベッドの上で涙を流し、祈り、みことばにすがった、これは詩篇に現れるダビデの姿です。私たちも同じです。私たちの人生にも耐えられないようなこと、悲しさや苦しさがあります。それを耐え続け、神に従って生きていこうという志を持つなら、私たちは聖書を読むことが必要です。聖書を読むことは律法ではありません。聖書を読まなければ立っていけないという私たちの切なる願いであり、切なる信仰生活です。新しい一週間が始まりますが、どうかそのことを覚えて、自分の身近な所に聖書を置き、このみことばが私のためにと教えられつつ聖書を読み続けていこうではありませんか。

 

 愛する天のお父様、御名を賛美いたします。私たちは聖書を読み、そこから教えられ、導かれ、聖書によって支えられなければいけない者です。神様は今までも私たちに聖書を与え、聖書を読む環境を与え、時を備えて下さった方です。私たちはその神様の恵みに期待し、それを喜んで聖書を読むことを日常生活の習慣としていけるように助けて下さい。(石岡キリスト教会 臼井信博牧師)