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唄を忘れたカナリア イザヤ書54章1~8節

【新改訳2017】

イザ

54:1 「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。──【主】は言われる──

54:2 あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。

54:3 あなたは右と左に増え広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

54:4 恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。

54:5 なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の【主】。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。

54:6 【主】はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか。──あなたの神は仰せられる──

54:7 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。

54:8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。

 統一教会から保護された私は、後にイエス様を信じましたが、本物のキリスト教を伝えなければ日本はカルト集団にやられてしまうと思いました。そこでホーリネスの神学校に行き、更に九年間韓国に留学しました。しかし水戸に帰ってきた時、「新天地」という韓国の異端がすでに教会に潜入していることを知り愕然としました。以来カルト対策に関わるようになり、様々な出来事を経て現在は勝田聖書教会の牧師をしております。

 さて、韓国と日本のキリスト教の違いは、信仰観にあるのではないかと思います。私たちの願いを聞いてくれて、祝福してくれるのが神であるのは同じですが、人格的な神かどうかという点で異なると思います。韓国では魂がたくさん救われていく、しかし日本ではどうか魂が救われるようにと祈っても、現実は一年に一回であったりします。例えばペテロの宣教を通し三千人が救われたのに、私たちには三千回伝道をして一人救われれば儲けものという発想があるのではないでしょうか。そんな時、神様はどんな気持ちでおられるのか、それは神は人格的な方であるということからわかると思います(1)。韓国では儒教文化なので、未だに長男が産まれないとお嫁さんの立場が悪くなるようです。まして数千年前の時代、イスラエルでは子どもが産まれなければ「石女」(うまずめ)と言われて、価値がないと思われていました。イスラエルは当時偶像礼拝の結果、バビロンに強制連行され、民は神に栄光を現すことなどできない、不本意な生活を送っていました。それを表現したのが541です。今、コロナ禍でほとんどの教会が神に栄光を帰することができません。特に日本は宣教160年を経ても、教会が教会をなかなか生み出すことができない、しかし神様は不妊の女、伝道の実を味わえない日本の教会に向けて、それを理解して慰めておられると思うのです。

 そんな私たちに向って、神様は天幕の場所を広げるようにと(2)チャレンジを勧めています。その祝福の範囲は1節の後半(夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ)と2節を見るとわかります。プロテスタントの教会は当初、世界の果てまで宣教するという意識がありませんでした。しかし、ウィリアム・ケアリーという宣教師が「(天幕を)惜しみなく広げ」というみことばに示され、1792年初めて世界宣教に着手しました。彼は「神から大いなることばを期待せよ。神のために大いなることを試みよ」と語りました。コロナ禍であり、子を産めない状態かもしれない、でも本意を全うできない苦しみの中で、神様は天幕の場所を広げよと仰っています。私たちはコロナ禍であっても、信仰を持って前進すべきだと思います。私たちの祝福の土台は、経済の基盤にあるのではありません。確かに、経済の基盤があるから私たちは献金ができるし、祝福されるという思いがあります。しかし、聖書は経済の基盤さえ神様の祝福の下にあると語っています。先週は特に若者たちに、十分の一献金について話しました。神様が祝福して下さると約束している以上、十分の一献金をささげてみましょう、チャレンジしてみましょう、そして神様を試みてみませんかということです。コロナ禍であれ、経済が厳しいのであれ、私はこういう時こそ神様のみことばが働いているのかを経験するチャンスだと思っています。イエス・キリストは昨日も今日も変わらないと仰っています。イスラエルも韓国も日本の教会も愛されています。5423の祝福の根拠は、53章にあります。それは私たちが本意に生きられない悲しみを思う前に、イエス様ご自身が用いられない悲しさを知っておられ、すべての苦しみを負って下さったからです。

私は「カナリア」という童謡が好きです。作詞者西條八十は幼い頃教会のクリスマスに連れていかれました。会堂には裸電球が二つしかなく、一つは光っていませんでした。彼は子どもたちに童謡を作りたかったのですが、貧しくて生活のために働かざるを得ませんでした。だから詩を書けない、自分の本領を発揮できない、そんな時子どもの頃見た教会の裸電球を思い出しながら、あの電球も用いられたかったんじゃないかと思ったそうです。歌を忘れたカナリアも自分の場所を見つければ、美しい声で再び鳴くことができるだろう、八十はそんな自分の願いを告白したのです。コロナ禍で自分の本意の中で生きられないで苦しんでいる人が多いと思います。しかしイエス様は、頑張れない私たちを励まして下さる方です。

 

 ハレルヤ、恵み深い神様、御名を崇めて感謝します。「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え、産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ」、コロナ禍で日本中のキリスト教会が生み悩んでいます。本意が全うされない苦しみがあります。伝道したい、もっと主の栄光を現したいけれど、それすらままならない状況の中、主は喜び歌え、喜び叫べと仰っています。私たちは天幕を惜しみなく広げる信仰を持って前に進むことができますように。リバイバルの波を、この日本にも起こして下さることを信じます。那珂湊教会を祝福し、地域の基として、魂がさらに救われる教会として用いて下さい。兄弟姉妹一人一人の賜物が豊かに用いられますように。(勝田聖書協会 藤枝宗浩牧師)