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真の回心 サムエル記第一24章16~22節

【新改訳2017】

Ⅰサム

24:16 ダビデがこれらのことばをサウルに語り終えたとき、サウルは「これはおまえの声なのか。わが子ダビデよ」と言った。サウルは声をあげて泣いた。

24:17 そしてダビデに言った。「おまえは私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした。

24:18 私に良いことをしてくれたことを、今日、おまえは知らせてくれた。【主】が私をおまえの手に渡されたのに、私を殺さなかったのだから。

24:19 人が自分の敵を見つけたとき、その敵を無傷で去らせるだろうか。おまえが今日、私にしてくれたことの報いとして、【主】がおまえに幸いを与えられるように。

24:20 おまえが必ず王になり、おまえの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。

24:21 今、【主】にかけて私に誓ってくれ。私の後の子孫を断たず、私の名を父の家から消し去らないことを。」

24:22 ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。

 ダビデの常識を超えたゆるしにサウルは心から感動し、声をあげて泣きました。そしてダビデに最大限の賛辞を送り、初めて自分の非を認めました。しかし26章から、サウルは再びダビデの命を取ろうとします。では今日の箇所の涙と悔い改めは一体何だったのか、彼の悔い改めはなぜ一時的だったのかについて、お話したいと思います。

 それは、彼の心の内に悔い改めを拒むものが二つ(偶像と恐怖)あったからです。偶像とは、私たちが神以外に神としているもののことです。彼の心にある偶像は権力でした。サウルは権力こそ自分を幸福にしてくれると信じて疑いませんでした。一度は非を認めたものの、彼の心から偶像が取り除かれていなかったので、再び偶像に支配されてダビデを殺そうとしたのです。私たちにもこのような偶像がある、と聖書は教えています。例えばお金が偶像になっていれば、危ない商売に手を出してしまう可能性があるでしょう。今日は礼拝の中で聖餐式があります。私たちは聖餐式で、自分の間違った行いやことばについて悔い改めるのですが、今日はそれらを生み出す根本である偶像は何なのか考えてみましょう。

 彼の心に恐怖があったことも、悔い改めを拒む原因でした。王位を失えば人望も失ってしまう、王位が自分の全てだと思えば思うほど、サウルは罪を悔い改めることができなくなってしまいました。ある専門家は、ロシアがウクライナ侵攻に踏み切った原因に、プーチン大統領の恐怖心があると指摘しています。そして世界は経済制裁という恐怖で悔い改めさせようとしています。本当に私たちの住んでいる世界は、罪に支配されていると思います。しかしイエス様は私たちを恐怖によってではなく、恵みによって悔い改めようとされる方です(マルコ115)。

 先週、私はマラソン大会に初めて参加しました。半年間、夜に走って練習を重ねてきたのですが、案の定、前の人たちと差が広がってきました。しかし暫くすると、私ととてもペースが合うおじさんに遭遇し、その方の手の動きをまねたり、その方の体で風の抵抗を減らしたりしながら、何とか20キロのコースを走り抜けることができました。そして、イエス・キリストから目を離さないでいなさい、というみことばが思い浮かびました。私たちには人生において恐れているものがありますし、誰かに抜かされて焦る気持ちもあるかもしれません。しかしイエス様は恐怖によって私たちを支配するのではなく、私たちに恵みを与え、私たちと一緒に人生を走って下さる方です。そしてイエス・キリストを見続けているなら、必ず天国に行くことができます(ヘブル1213)。

 

 天の父なる神様、御名を崇め、賛美いたします。サウルはダビデに対して、神様に対して自分の非を認めたように見えましたが、彼の偶像は取り除かれることがなく、また自分の王座に執着し、ダビデを殺す道に向ってしまいました。神様、私たちにもサウルのような罪があることを認めます。私たちにも、罪が作り上げた偶像があります。どうぞこの偶像をあなたが気付かせて下さい。そして偶像に依り頼むのではなく、真の神様に依り頼むことができるように助けて下さい。あなたが私たちの人生を共に走って下さる神様です。人格がない、また人間以下の偶像では、私たちが満たされることはできません。私たちには、私たちをつくられた創造主しか満たすことができない心の部屋があります。どうぞ、私たちと共にいて下さって、私たちの心を支配して下さいますようにお願いします。(202236日礼拝 武田遣嗣牧師)