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高慢か謙遜か サムエル記第一25章14~35節

【新改訳2017】

Ⅰサム

25:14 ナバルの妻アビガイルに、若者の一人が告げて言った。「ダビデがご主人様に祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、ご主人様は彼らをののしりました。

25:15 あの人たちは私たちにとても良くしてくれたのです。私たちは恥をかかされたこともなく、野で一緒にいて行動をともにしていた間、何も失いませんでした。

25:16 一緒に羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは私たちのために防壁となってくれました。

25:17 今、あなたがどうすればよいか、よく考えてください。わざわいがご主人とその一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」

25:18 アビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、

25:19 自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。あなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。

25:20 アビガイルがろばに乗って山陰を下って行くと、ちょうど、ダビデとその部下が彼女の方に下って来るのに出会った。

25:21 ダビデは、こう言ったばかりであった。「荒野で、あの男のものをすべて守ってやったので、その財産は何一つ失われなかったが、それは全く無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した。

25:22 もし私が明日の朝までに、あの男に属する者のうち小童一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」

25:23 アビガイルはダビデを見ると、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。

25:24 彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。

25:25 ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。

25:26 ご主人様。今、【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。【主】は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。

25:27 今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。

25:28 どうか、はしための背きをお赦しください。【主】は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は【主】の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。

25:29 人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、【主】によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。

25:30 【主】が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

25:31 理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。【主】がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」

25:32 ダビデはアビガイルに言った。「イスラエルの神、【主】がほめたたえられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。

25:33 あなたの判断がほめたたえられるように。また、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。

25:34 イスラエルの神、【主】は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。」

25:35 ダビデはアビガイルの手から、彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、家へ上って行きなさい。見なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」

 

 聖書における謙遜とは、神様を主と認めているという意味です。心が謙遜であれば、それが良い行いとして現れてきます。神様を自分の主と認めている人は、神様が人間一人一人を神様のかたちとしてつくったことを認めているので、悪口を言いません。悪口は神様の作品を侮辱することだからです。また正義の神様がおられることを信じているので、自分で復讐しません。一方、謙遜の反対が高慢です。これは自分を主とする心(自己中心)のことです。

 25章全体を読むと、ナバルという人は非常に高慢な人物だったことがわかります。そしていつも神様を主としていたダビデが、ナバルの高慢な態度によって神様が見えなくなってしまいました(25:10,13)。

 ダビデの家来に何も与えなかったナバルの態度にたまらず、ナバルの家来はそれをナバルの妻アビガイルに告げました。アビガイルはダビデにゆるしてもらうため、感謝を示すために、ダビデのもとにすぐに出向いて行きました。家来が誰も話しかけることができないほど高慢だったナバルは、おそらく妻にもひどい態度をとっていたと思います。しかしアビガイルにとって、主はナバルではなく神様でした。自分の人生を神様に明け渡しているからこそ、彼女は大胆な行動に出ることができたのです。アビガイルの態度は、ダビデには衝撃的だったでしょう。 ダビデはナバルの家の者は皆高慢だと思い、皆殺しにしようと考えていたからです。アビガイルを通し、ダビデは自分が高慢に支配されていたことに気づき、徐々に神を主とする謙遜に立ち戻っていきます。26節以降のアビガイルのことばには、「主」ということばがたくさん出てきます。彼女はダビデが神様に心を向けるようにことばを紡いでいきました。そして「主は生きておられます」という彼女のことばに、ダビデの信仰は再び目覚めていきました。さらにアビガイルは神様の計画について話し始めました(30,31)。怒りや憎しみによって近視眼的になっていたダビデに、彼女は神様の計画を思い出させたのです。アビガイルの謙遜はダビデを謙遜にしていき(32,33)、ダビデは自分が主ではなく、神様を主とする道へ導かれていきました。

 もし私たちが神様を主とし、心の謙遜によって良い行いをしていくなら、アビガイルのように、私たちの周りの人にも少しずつかもしれませんが影響を与えていけるはずです。友人や家族、まだ神様を知らない人たちに対して、まず私たちが謙遜であることによって神様が証されていく、このアビガイルのような者になりたいと思います。

 最後に、イエス様は謙遜の最高の模範です。イエス様は、人生の最初から最後まで神様を主として歩まれました。イエス様は、自分の思い以上に主なる神様がどのように考えておられるのかを優先して、最後は十字架にかかって死なれました。しかし、最後まで謙遜に生きたイエス様を神様は復活させて、イエス様は神の国に帰っていかれました。私たちも神様を主にして謙遜に歩もうと決断するなら、神様は決して私たちに損な人生を送らせないと思います。必ず、神の国に導かれることができるはずです。

 

 天の父なる神様、今日はアビガイルの謙遜に学びました。ダビデはナバルの高慢によって自分も高慢になってしまいました。私たちは高慢な友人や家族を前に、心乱され怒りに満ち溢れてはいないでしょうか。十字架にかけられたイエス様の謙遜な姿が、自分の心のどこにも見当たらない、そんなことはないでしょうか。どうか、イエス様の謙遜の模範に倣い、イエス様を見つめて今週歩んでいくことができますように、いつも私たちと共にいて下さい。(2022320日礼拝 武田遣嗣牧師)