実践的主の祈り マタイの福音書6章9~15節

【新改訳2017】

マタ

6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

6:13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

 主の祈りは、イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。主の祈りは礼拝の中で祈るイメージが強いのですが、今日は日々の生活の中で祈ることをお勧めします。

 まず9節前半「天にいます私たちの父よ」。どんな祈りも、神様を呼ぶことから始まります。このことばは、神様がこの世界をつくられた別格の存在であり、かつ父親のような身近な存在であることを示しています。

 続いて「御名が聖なるものとされますように」。これは自分中心ではなくて、神中心に生きることを願う祈りです。創世記2章には、人が神様と幸せに生きている様子が描かれています。しかしこの後、人は「神様のようになれる」と悪魔に騙され、善悪の知識の実を食べてしまいました。以来、自己中心に歩んでしまう罪が私たちの心に入ったわけです。私たちの身近な言い争いから国々の戦争に至るまで、それらは私たちの自己中心の罪が生み出したものです。この祈りは、私たちを自己中心から神中心に変えていきます。こんなに頑張ったのに、なぜ自分は重要視されていないのだ、なぜ自分は見下されてしまうのだと思う時があるかもしれません。しかし「御名が聖なるものとされますように」と祈る時、私ではなく神様が重要視されるべきなのだ、という視点と平安が与えられます。

 次に「御国が来ますように」。聖書は、私たちが天国という故郷に帰る途中にいると教えます。しかし、この意識は簡単に私たちの頭から消えてしまいます。地上の財産を蓄えることに夢中になったり、短絡的に今楽しいことに集中したりするからです。しかし私たちは若くても年配者でも、明日天国に行くかもしれない存在であることを意識しなければならないでしょう。だから私たちは、天国というゴールを常に念頭に置いて今日を生きることに集中する必要があります。黙示録23章には、迫害に耐えながら礼拝を守り続けている七つの教会について記されています。彼らはいつも天国を意識していました。自分の目指すゴールがはっきりしていたからこそ、忍耐することができたわけです。私たちが天国のゴールに目を向け続けるためにも、日々「御国が来ますように」祈ることが大切だと思います。

 続いて「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」。私たちは神様の心ではなく、自分の願いが叶うことが一番いいと考えがちです。神様がどう思われ、何を望んでおられるのかという視点を持つことが大切ではないでしょうか。そして神様のみこころが地で行われるために、今日自分は何ができるのかを考えてみましょう。この祈りは、自分の思いや考えに支配されないで、神様のみこころ、ご計画は何かという視点を持ち続けるために必要な祈りです。

 続いて「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」。日ごとの糧とは、物質的、精神的、知的必要を指しています。私たちが祈りの中で求める対象はとても広いですが、ただやみくもに求めるのではなく、今日必要なものを求めることが大切です。なぜなら、「今日もお与えください」とあるからです。できれば、これから何十年先まで生きていける食料やお金が与えられますようにと祈りたいところですが、あれもこれもと手を伸ばして、結局むなしさだけが残って、自分が本当に必要だったものは何だったのかと考える、こういうことは、物が飽和した現代社会でよくあることではないでしょうか。イエス様は、今日あなたに必要なものを吟味した上で祈り求めるよう仰いました。私たちはこの祈りを通して本当に必要なものは何かを考え、神様に祈ることができます。

 続いて「私たちの負い目をお赦しください」。「負い目」というギリシャ語には、借金という意味が含まれています。マタイ18章では、私たちの罪が一万タラント(四千億円以上)の借金にたとえられています。到底自分の力では返せない額です。聖書には、これに匹敵する罪というのは、永遠の死に至ることでしか清算することができないと書かれています。しかし二千年前、イエス様は十字架にかかって、私たちの死の身代わりになって下さいました。もし私たちがイエス様を信じるなら、四千億円に相当する罪をイエス様が代わりに支払って下さいます。私たちの過去にどんな負い目があったとしても、この祈りを通して私たちは罪の赦しを体験することができます。さらにこの祈りは、私たちを赦す者に変えていきます。イエス様は私たち一人一人が赦す者になっているかどうか、注目しておられます(マタイ6:14,15)。イエス様の赦しに心から感謝しているなら、私も赦そうと赦しの道に進んで行くことができるはずです。そしてイエス様の十字架の赦しに応えて、私も赦す者になれた時、それはどんな奉仕より神様は喜んで下さいます。

最後に「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」。この世界には、神の試みと悪魔の試みがあります。神の試みは人を成長させます(ヤコブ4:2)。しかしこの世界には悪魔の試みがあります。私たちは私たちを自己中心にし、自分の願いや所有物に固執させ、私たちと神様との関係を断ち切ろうとする悪魔の試みを日々受けています。ですから、私たちを悪魔の試みにあわせないで悪からお救い下さいと祈る必要があるあります。私たちはよく、罪を犯した後に祈ります。これはとても大切ですが、罪を犯さないようにという祈りが足りないことが多いかもしれません。今日私たちが罪と悪魔から守られて、神様に喜ばれる歩みができますように、日々そう祈る者でありたいです。ぜひ、主の祈りを日常生活の中に取り入れて下さい。

 

 天の父なる神様、今日はイエス様が弟子たちに教えて下さった主の祈りを共に学びました。どうぞ、私たちが日常生活の中で主の祈りのことばの意味を理解し、考えながら祈ることができるように助けて下さい。この祈りは、自己中心から神中心の心になっていくために必要な祈りです。どうぞ、私たちがこの祈りを通して、さらにあなたに喜ばれる者に変えられていきますように助けて下さい。(2022328日礼拝 武田遣嗣牧師)