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神の計画を信じる サムエル記第一25章36~44節

【新改訳2017】

Ⅰサム

25:36 アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは、自分の家で王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上機嫌で、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。

25:37 朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。

25:38 十日ほどたって、【主】はナバルを打たれ、彼は死んだ。

25:39 ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「【主】がほめたたえられますように。主は、私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった。【主】はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」ダビデは人を遣わして、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。

25:40 ダビデのしもべたちはカルメルのアビガイルのところに来て、彼女に、「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました」と言った。

25:41 彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「さあ。このはしためは、ご主人様のしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」

25:42 アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女を後に従え、ダビデの使者たちの後に従って行った。彼女はダビデの妻となった。

25:43 ダビデはイズレエルの出であるアヒノアムを妻としていたので、二人ともダビデの妻となった。

25:44 サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えていた。

 

 25章で、神様はダビデに二つのこと(神の正義と謙遜)を教えています。

第一は神の正義です。ダビデはナバルから正当な報酬を得られず、怒りと憎しみに支配されますが、思い直して自分が復讐するのではなく、正義の神様にお委ねすることにしました。今の世界の状況を見ると、正義の神様などいるものかと思ってしまいそうです。ここで私たちがダビデから学びたいのは、彼が命の危険と貧しさの中で正義の神様を信じ、待ち続けていたことです。私たちは混沌とした世界にあっても、正義の神様に叫び続ける者でありたいと思います。また、自分自身も神の正義によるさばきの対象であることを覚えましょう。私たちは自己中心の罪を持っていますから、自分は正しいと思ってしまいがちです。だから私たちは正義を願う祈りをしつつ、どうか私の罪をお赦しくださいと祈っていきたいと思います。

 

第二は謙遜です。ナバルの妻アビガイルは、ダビデのもとに行って謝罪をしました。それまで、ダビデはナバルに復讐してやろうと思っていました。しかし、神様を主とする謙遜なアビガイルの姿勢を見て、主はおられる、神のさばきに委ねようと、ダビデは考えを改めたのです。謙遜とは神様を主とすることです。アビガイルは愚かなナバルの妻でしたが、神様によって高く引き上げられて、後のダビデ王の妻になりました。神様は、蔑まれ悲しみの中にいる謙遜な者を高く引き上げて下さる方です。41節を読むと、イエス様が弟子たちの足を洗った箇所が思い浮かびます(ヨハネ1345)。これはイエス様が十字架にかかる直前の出来事です。その頃、弟子たちは誰がイエス様の次に偉いか、言い争っていました。ペテロは、たとえあなた(イエス様)が死のうとも、私はあなたについていきますと大言壮語を吐き、また自分の母親に根回しをして、自分が少しでも偉くなれる地位につけるよう図った弟子もいました。そんな時にイエス様が弟子たちの足を洗い始めたのです。アビガイルが足を洗う女奴隷となりましょうと言ったように、足を洗うとは奴隷がするような仕事でした。しかし、イエス様は神様なのに弟子たちの足を洗い、弟子たちに謙遜の模範を示されたのです。私たちには謙遜になれない時があります。見下され、蔑まれ、自分の名誉を守らなければならないと思って躍起になってしまうこともありますが、神様は仕える者、謙遜な者、神を主とする者を高くして下さいます。もしこの教会が他のどの組織にもない温かさを持とうとするのなら、互いに仕え合うという特質を持つべきではないでしょうか。まず私一人が謙遜に隣人に仕えるのであれば、アビガイルがダビデを謙遜にしたように、私たちの家族、教会、周囲は変わっていくはずです。(202245日礼拝 武田遣嗣牧師)