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天国の礼拝 黙示録22章1~9節

【新改訳2017】

[ 22 ]

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、

22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。

22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

22:6 御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」預言者たちに霊を授ける神である主は、御使いを遣わして、すぐに起こるべきことをしもべたちに示された。

22:7 「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」

22:8 これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。

22:9 すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」

 

 キリスト教はイスラエルという小さな国から始まりましたが、イエス様が天国にのぼられた後、弟子たちは各地で福音を宣べ伝え、迫害にも耐えました。それは、彼らに天国というゴールに向かっているのだという意識があったからです。では、私たちが目指す天国とはどんな場所でしょうか。

 第一に、天国は永遠のいのちが与えられる所です。いのちの水の川の水源は、神と子羊の御座であり、水は都の大通りの中央を流れています(1)。これは、神様が天国にいるすべての人に、永遠のいのちを与えていることを指しています。また、天国にはいのちの木が生えています。いのちの木は、アダムとエバが住んでいたエデンの園にも生えていました。しかし、アダムとエバは悪魔に騙され、いのちの木の実ではなく善悪を知る木の実を食べてしまいました。これによって人間は神様になったような気になって善悪を判断し、自己中心に生きるようになりました。天国には善悪を知る木は生えていません。皆がいのちの木の実を食べるのです。善悪を知る木は人間に死と自己中心を与えましたが、いのちの木はいのちと神様を見上げて礼拝する心を与えます。「12の実、毎月一つの実を結ぶ」(2)という表現は、永遠のいのちの豊かさを表しています。私が小学生の頃、学校の図書館に手塚治虫の「火の鳥」という漫画がありました。火の鳥の血を飲めば永遠のいのちを得ることができるので、それを手に入れようとしたり、奪い合ったりする人間の群像劇を描いた作品です。この作品で永遠のいのちを手に入れた人は、自分の欲望にかられたり、周りの人々の悪によって大体、悲劇に見舞われることになります。手塚治虫はこの漫画の中で、この世界で永遠に生きることはあまりいいことではない、と言っているように思います。しかし聖書では、人間の罪、悪がすべてきよめられたら、世界には飽きることのない豊かさがある。それを2節の12の実が毎月採れることで表しています。このように、永遠かつ豊かさがある所が私たちのゴールであることを、まず覚えたいと思います。

 第二に、天国はこの世で受けた体の痛みや心の傷が癒されていく場所です(2)。天国の日々には悲しみ、苦しみはありません。私たちが痛み、苦しんでいるこの世の時間は、永遠の天国の時に比べたら一瞬なのです。今、世界はコロナと戦争を経験しています。とりわけ、戦争は戦地にいない私たちにも大きな衝撃を与えました。戦争は人間の罪からくる人災であり、それは一番醜くて、深い傷を残すものだと思いました。しかしそのような戦争の痛みでさえ、天の御国では癒されていきます。体は老いと死から解放され、差別や病、別れなどによる心の傷も癒されていきます。天国があるという視点に立つ時、私たちは絶望せずにこの世界を歩んで行くことができるのです。

 第三に、天国は神が共におられる所です(3,4)。天国の最もすばらしいところは、神様との関係の回復です。旧約聖書では、神様の顔は直視できないもの、見たら死ぬものとして描かれています。私たちの内にある罪が神様と人とを離れさせるので、この世では神様の顔を見ることはできません。神様と本当の意味で親しくなることはできないのです。しかし天国では、神様と顔と顔を合わせて親しく過ごすことができます。私たちは幾つになっても人間関係に悩みます。それは、それぞれが求めている関係性を中々得られないからだと思います。しかし関係性の満たしは、神様でないとできません。更に言えば、天国にたどり着いた時、初めて満たされるものなのです。

 黙示録の著者ヨハネは、キリスト教を布教したという罪で島流しにされました。彼は絶望的な状況の中でやがてたどり着くゴール(天国)の幻を見た時、感謝に溢れて御使いを礼拝しようとしました(8)。御使いはヨハネに神を礼拝するよう命じました(9)。御使いも人間も、神様につくられたものです。本当に礼拝されるべき方は、この世界をつくられた神様です。私たちにもそれぞれ厳しい状況があるでしょう。しかしこの世界をつくられた創造主、神様が私を天国に連れていってくれるという希望を持ち、礼拝を大切にして歩んでいきたいと思います。そして私たちは、神様を礼拝することを喜ぶ教会でありたいと思います。

 

 天の父なる神様、ヨハネが島流しに遭い、絶望の中に浸っている時に、神様はヨハネに天国の幻を見せて下さいました。そしてヨハネは天国というゴールがあることに喜びを感じ、その場で礼拝を始めました。イエス様によって、私たちにも同じ希望が与えられています。この世に悲惨な状況はありますが、神様の計画があって、この世界は天国に変えられていきます。主よ、明日天国が来るかもしれないという思いを持って、私たちが一日一日を大切にして歩んでいけるように助けて下さい。私たちもヨハネのように神様に感謝し、神様を礼拝し続けることができますように。天国に行っても、あなたを心から礼拝し続けることができますように助けて下さい。(2022411日礼拝 武田遣嗣牧師)