· 

七の七十倍まで赦しなさい サムエル記第一26章21~25節

【新改訳2017】

Ⅰサム

26:21 サウルは言った。「私が間違っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。もう、おまえに害を加えない。今日、おまえが私のいのちを尊んでくれたのだから。本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した。」

26:22 ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者の一人をよこしてください。

26:23 【主】は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。【主】は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、【主】に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。

26:24 今日、私があなたのいのちを大切にしたように、【主】は私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます。」

26:25 サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ、おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰って行った。

 

 ダビデがサウルを赦すのは、24章に続いて2回目になります。私たちはダビデのように、何度も人を赦すことができるでしょうか。聖書は、自分の心に嘘をついて人を赦すことを強要していません。しかし、私たちがみことばを聞くことによって、神様のゆるしと福音に感謝し続けることによって、私たちの心は怒りや憎しみから解放され、赦しの道に導かれていくのだと思います。

 ジフ人はサウルに協力的で、ダビデがサウルに捕まるのは時間の問題でした。そこでダビデは大胆な行動に出ました(12)。彼はサウルの陣営に忍び込んだのです。サウル殺害を提案する部下アビシャイに対し、ダビデは怒りに身を任せることなく、サウルの槍と水差しだけを取ってそこから立ち去りました。そして山に登り、サウル陣営の兵たち、特にサウルの側近アブネルに語りかけました(1516)。サウルは憎しみによってダビデの命を、アビシャイは憎しみによってサウルの命を奪おうとしました。憎しみは私たちを近視眼的にします。相手の立場に立つことを忘れさせ、正しい選択肢を取れなくします。ダビデが素晴らしいのは、この憎しみに支配されず赦し、豊かな知恵やアイディアによって積極的に怒りと憎しみの問題を解決に導こうとしたことではないでしょうか。

 では、赦す人ダビデが信じていたことを三つお話しましょう。第一に、彼は人には皆尊厳があることを信じていました(21)。サウルは、ダビデが自分の命を尊んでくれたことを喜びました。ダビデが凄いのは、自分の命をねらうサウルにさえ、人としての尊厳を認めていたということです。人は神様の作品です。もし私たちが人を傷つけたり、暴言を吐いたりする時、それは神様の作品を侮辱していることになります。私には、以前牧師で今は小学校の教師をしている友人がいますが、担任になったクラスに、友達をいじめる子がいたそうです。その友人は、信仰という土台のない子どもたちに人の尊厳を教えることの難しさを語っていました。私たちは恵みによって救われたはずなのに、実力、地位や行いによって自分や周りの人を評価してしまうことがないでしょうか。私たちは人には皆尊厳があることを覚え、自分と合わない人のことを考えることが大切かもしれません。

 第二に、ダビデは神様の正しいさばきがあることを信じていました(23,10)。主に任せようという信仰があったので、ダビデは憎しみや復讐に支配されないで、サウルを赦すことができたのです。

 第三に、ダビデは神の恵みがあることを信じていました(24)。ダビデの考え方は、神様はすでに私のことを愛し赦し救って下さったから、私もあの人を愛し赦し助けようというものでした。

 今日のメッセージのタイトルは「七の七十倍まで赦しなさい」ですが(マタイ182127)、これは無制限に赦すことを意味しています。たとえ話にある王様は神様、一万タラント(現在の何千億円)の負債がある者は私たち人間を表しています。王様はこの家来をかわいそうに思い、負債を免除しました。そして王様は家来を赦したように、家来も他の人を赦すように望みました。神様は、私たちが自分の心を無視して無理矢理人を赦すことを求めているのではありません。神様は、私たちが礼拝やみことばや祈りから、神様の赦しを十分に受け取って、神様が赦して下さったのだから、私も赦そうと考えるようになってほしいと願っておられます。そして憎しみや怒りに捕らわれるのではなく、むしろダビデのように、積極的に平和をつくり出す者になってほしいと望んでおられるのです。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。ダビデはどうして憎しみや怒りに支配されずに歩むことができたのでしょうか。それは、ダビデに自分は神様に愛されている、大切にされているという意識、信仰があったからではないでしょうか。私たちもダビデのように神様に大切にされている、神様に高価で尊いと言われているという思いを持って、周りの人々を愛し、赦すことができるように助けて下さい。(2022424日礼拝 武田遣嗣牧師)