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神様はあなたと共に サムエル記第一27章1~12節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 27 ]

27:1 ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」

27:2 ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。

27:3 ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住んだ。ダビデも、その二人の妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルと一緒であった。

27:4 ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度と彼を追おうとはしなかった。

27:5 ダビデはアキシュに言った。「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう。」

27:6 その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。それゆえ、ツィクラグは今日まで、ユダの王たちに属している。

27:7 ダビデがペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。

27:8 ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいた。

27:9 ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰って来た。

27:10 アキシュが「今日は、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。

27:11 ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。「彼らが『ダビデはこういうことをした』と言って、私たちのことを告げるといけない」と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をした。

27:12 アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」

 

 今日の箇所でダビデは、人生の難しい選択を迫られました。

第一は、イスラエルにとどまるか、ペリシテに逃げるかということです。サウルに追われ逃げ回っていたダビデの心は遂に限界を迎え、いつかサウルに滅ぼされるだろうと弱音を吐くようになりました(1)。そこでダビデは、ペリシテ人の地に逃げることを考えました。ペリシテはイスラエルと敵対関係にあったので、ペリシテに逃げ込めばペリシテ人にかくまってもらえるのではと思ったからです。しかし、もしダビデがペリシテに寝返れば、簡単に戻ることはできません。しかもダビデは、イスラエルの王になると神様から告げられていたので、それならイスラエルにとどまっていた方がいいような気がします。しかし彼には自分の家族を含む、六白人の仲間がいました。彼らを守るためにはペリシテ人の地に行った方がいい、葛藤の末、ダビデは後者を選択しました。

 第二は、正直に生きるか、嘘をついて生きるかです(6,7)。アキシュはガテの王でした。彼はダビデたちにツィクラグという町を与えました。この町はペリシテとイスラエルの国境にあり、ダビデはペリシテ人側としてイスラエルと戦わなければなりません。アキシュは、本当にダビデがペリシテ人の味方なのか、国境の町を与えることでダビデを試したのでしょう。ダビデとしては、故郷イスラエルの人々と戦うわけにはいきません。そこでダビデは、アキシュに対して嘘をつくことにしました(10.11)。ダビデの嘘によって彼と仲間の命が守られ、またダビデはツィクラグ近郊のイスラエル人を殺さず、友好関係を築くことができました。

 ダビデは良い選択をしたとも、間違っているとも言い難いです。きれいごとだけでは生きられない、人生の選択をする難しさがこの箇所には凝縮されています。私たちは人生の選択肢を選ぶ上で二つのことを心に留めたいと思います。

第一は、みことばを土台とした選択であるかということです。ダビデが良い選択をした時には、どんなに急がなければならない状況にあっても、祈りとみことばを聞きました(232308)。私たちの選択には、いつもタイムリミットがあります。しかし、落ち着いて静まって、神様と対話する時間を持てる者が、人生において良い選択をすることができると言えるのではないでしょうか。私たちはどうしても自分中心に物事を考えてしまいますが、みことばは私たちが神中心に考えるように、最良の選択をするように助けて下さいます。

第二は、御心は一つだけと思い過ぎないことです。神様の御心は何かと考えることはとても大切ですが、それは一つだけだと考える必要はないと思います。私は学生の頃、自分が将来牧師になるか、別の職業に就くか考えていました。正解は一つだけと考えていたので、当時は心がとても苦しくなりました。ある方に相談したところ、こんなアドバイスをもらいました。あなたに与えられている能力やお金、人間関係の中でもっと自由に考えて、神様を喜ばせる人生を送ったらいいじゃないかと。その結果、私の持っているもので神様を喜ばせるにはどうしたら良いだろうという視点が与えられ、私は牧師の道を志すようになりました。

私たちには、これから選ぶ多くの選択肢があります。ダビデのように難しい選択を迫られることもあるでしょう。そしてどれを選んでも、誰かを傷つけてしまうとか、何かを犠牲にしてしまうこともあるかもしれません。しかし、みことばという軸をしっかり持って、神様が喜ばれる道は何かを選んでいく知恵が与えられますように。

 

天の父なる神様、今日の箇所でダビデは難しい選択を迫られました。何が正しいのか、どの道が神様の御心なのか、私たちはいつも悩みますが、どうぞ私たちがみことばを土台として人生の道を決めることができるように助けて下さい。そして、あなたが喜ばれることを想像力豊かに考えて、それを実行することができるように助けて下さい。(202251日礼拝 武田遣嗣牧師)