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神を信じるか自分を信じるか サムエル記第一28章15~25節

【新改訳2017】

Ⅰサム

28:15 サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」

28:16 サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。【主】はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。

28:17 【主】は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。【主】は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。

28:18 あなたが【主】の御声に聞き従わず、主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、【主】は今日、このことをあなたにされたのだ。

28:19 【主】は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。明日、あなたもあなたの息子たちも、私と一緒になるだろう。【主】は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡されるのだ。」

28:20 すると、サウルはただちに地面に倒れて棒のようになり、サムエルのことばにおびえた。しかも、その日一昼夜、何も食べていなかったので、力は失せていた。

28:21 女はサウルのところに来て、サウルが非常におじ惑っているのを見て彼に言った。「あなたのはしためは、あなたが言われたことに聞き従いました。私はいのちをかけて、あなたが言われたことばに従いました。

28:22 今度はあなたが、このはしためが申し上げることをお聞きください。パンを少し差し上げます。それをお食べください。お帰りのとき、元気になられるでしょう。」

28:23 サウルはこれを断って、「食べたくない」と言った。しかし、彼の家来も女もしきりに勧めたので、サウルはその言うことを聞き入れて地面から立ち上がり、床の上に座った。

28:24 女の家に肥えた子牛がいたので、彼女は急いでそれを屠り、また、小麦粉を取って練り、種なしパンを焼いた。

28:25 それをサウルと家来たちの前に差し出すと、彼らは食べた。そしてその夜、彼らは立ち去った。

 

エペ

2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

 今日の中心人物サウルは、神様ではなく自分の力によって欲しいものを手に入れようとしてきました。しかしその歩みは不安定でした。聖書は自分ではなく、神を信じる歩みに私たちを導いていきます。では、神様を信じる歩みとはどのような歩みでしょうか。

 第一に、それは神を主とする歩みです。15節から、サウルとイスラエルを代表する預言者だったサムエルとの対話が始まります。サムエルは、神様がすでにサウルから離れていると言いました。なぜなら、サウルは一度も神様を主としたことがなかったからです。興味深いのは、サウルが神様のことを「神」と呼んでいるのに対し、サムエルは神を「主」と呼んでいることです。私たちはどうでしょうか。イエス様は私たちのために十字架につけられ、私たちの身代わりとなって死んで下さいました。イエス様は十字架上で三つの苦しみ(肉体的、精神的、霊的な苦しみ)を経験されました。そこまでして神様は私たちを愛し、私たちを救いに導こうとされています。私たちはサウルのように神様の恵みを無下にしていないか、神様の愛と救いに応える生き方(神を主とする生き方)をしているでしょうか。

 第二に、それは愛されていると信じる歩みです。サウルは、神様の愛を信じることができない人でした。彼はダビデに王位を取られないために、あらゆることをしました。王位はもともと神様から与えられたものなのですが、サウルは自分で守らなければならないと考えていました。彼は、神様が必要を与えて下さるということを信じていませんでした(18)。私たちは自分に問いかけてみましょう。私は神様に愛されていると信じているかと。神様に愛されているという確信は、必ずあなたの生きる希望になるはずです。私たちはいつかなくなってしまう愛ではなく、神様の無条件の愛を受け取って、これを人生の基盤としていかなければならないと思います。

 第三に、それは救いを信じる歩みです。サムエルは、サウルがペリシテ人の手に渡されると言いました(17)。サムエルはすでに死んでいるので、彼と一緒になるとは明日の戦いでサウルが死に至ることを示しています。サウルは自分を信じて歩もうとしました。しかしその道は天国には続いておらず、死に至る結果となりました。私たちは、自分の良い行いで自分を天国に連れていくことはできません。確かに、神様は私たちの良い行いを見て、それに報いて下さいます。しかし、私たちの良い行いが私たちの罪を打ち消して、私たちを天国に連れていくことはできないのです。最後に、サウルは霊媒師から食べ物をもらって食べました(2425)。これは、サウルが神様を信じて神様に養われ救いを受けるのではなく、自分や別なものを信じて、それから養いを受けるようになったことを示唆しています。自分の力だけで歩もうとした人の悲しい末路が、ここに描かれています。私たちの救いは行いによるのではありません。私たちが神様の無条件の愛を素直に受け取り、自分の罪を認め、神様と共に歩もうとする時に、私たちは救われるのです。そして良い行いは、私たちが救われた後、救いの感謝によって行うべきものです(エペソ2810)。自分を信じるサウルの生涯は、不安と悲しみに支配されていました。しかし、神様を信じて歩む生涯は、自分でこうしなければという疲れ、不安からの解放です。私たちは自分ではなく、神様を信じて歩む者になりたいと思います。

 

 天の父なる神様、私たちを恵みによって救って下さったことをありがとうございます。しかし時に、私たちはあなたからどれほど愛されているのかということを忘れ、自分の力で神や人に愛されようとしてしまいます。しかしまず、私たちが無条件の愛で愛されていることを心に留めて、それに感謝をして日々の奉仕、また神と人を愛する行いをしていくことができるように、あなたがどうか助けて下さい。どうぞ一人一人に必要なみことば、助けを与えて下さい。今週、あなたが私たちと共に歩んで下さい。(2022515日礼拝 武田遣嗣牧師)