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涙の谷を越える力 サムエル記第一30章1~10節

新改訳2017 

Ⅰサム

30:1 ダビデとその部下が三日目にツィクラグに帰ったとき、アマレク人はすでに、ネゲブとツィクラグを襲っていた。彼らはツィクラグを攻撃して、これを火で焼き払い、

30:2 そこにいた女たちを、子どもも大人もみな捕らえ、一人も殺さず、自分たちのところへと連れ去っていた。

30:3 ダビデとその部下が町に着いたとき、なんと、町は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。

30:4 ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

30:5 ダビデの二人の妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。

30:6 ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。

30:7 ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。

30:8 ダビデは【主】に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

30:9 ダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残ることになった者は、そこにとどまった。

30:10 ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡れなかった二百人の者が、そこにとどまった。

 

 政府は今年四月、孤独・孤立に関する調査の結果を公表しました。それによると、日本人の三人に一人が孤独・孤立を感じることがあるそうです。さらに、若い人ほど孤独を感じているという結果でした。では、ダビデはどのように孤独の試練に向き合ったのでしょうか。

 ダビデとその部下は、戦地アフェクから自分たちの町ツィクラグに帰ってきました。一行は、家族との再会を楽しみにしていたでしょう。しかし、ツィクラグに帰ると、彼らの前にはおぞましい光景が広がっていました(1,2)。ダビデは声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなってしまいました。そして二人の妻も連れ去られてしまいました(4,5)。彼の孤独の試練の始まりです。そして、孤独は更に深まっていきました(6)。人は孤独になると、攻撃的になるそうです。家族を失った兵士たちが、あれだけ信頼していたダビデを殺そうとするのです。家族も、仲間からの信頼も失ったダビデは、次のように孤独の試練と向き合いました。

第一に、彼は主によって奮い立ちました(6)。兵士たちは、孤独の中でダビデを殺そうとしました。彼らは、孤独の中で神と人を恨む道に進んでいったのです。一方ダビデは、家族や兵士たちという人間同士の横の関係を失ってしまいましたが、神様との縦の関係によって孤独から奮い立ったのです。ご存じのように、人間関係はある日突然、崩れる可能性があります。今日のダビデのように、特別悪いことをしていなくても崩れる可能性がある、そういう不安定さを持っています。しかし神様は、私たちのことを何があっても愛して下さいます。この愛を知っていたからこそ、ダビデは絶望の中から奮い立つことができました。人間との横の関係は不安定なものですが、神様との縦の関係は、私たちが神様を拒絶しない限りは永遠なのです。孤独の中で立ち上がれるかどうかは、神様の愛を知っているか否かではないでしょうか。私たちは孤独になった時、兵士たちのように、神と人を恨む方向に進んでいくでしょうか。ダビデのように、神様の愛を受け取って解決への道を進んでいくでしょうか。神様は、私たちが孤独を感じている時も私たちを愛し、人を愛する力を与えて、解決に導いて下さいます。

第二に、ダビデは立ち止まって祈りました(7,8)。考えてみると、今アマレク人はダビデの家族を遠くに連れ去っているのですから、追いかけるのが遅ければ、ダビデは追いつけないし、家族が殺されてしまうリスクが高くなります。その中で、ダビデが祭司を呼んで祈ったというのです。現代の資本主義社会の悪い面の一つは、立ち止まってはならない、成長しなければならないと考えることです。確かに、聖書はよく学び、よく働き、よく遊ぶことを勧めていると思いますが、それらを止められなくなることは大きな問題だと教えています。はっきり言うと、立ち止まれないのは神様を信頼していない証拠なのです。結局、自分がやらなければならないと思っているわけです。しかし、神様の前で立ち止まるなら、神様は私たちの人生に深く介入して、助けて下さいます。一人で生きなければならない、という思いから解放されていきます。どんなに急いでいても、大変な状況にあっても、ダビデのように神様の前に立ち止まって、神様と共に人生を歩んでいきたいと思います。

マザー・テレサは、最もひどい貧困とは孤独であり、愛されていないという思いであると言いました。日本でも孤独が大きな社会問題になっています。孤独は自殺や殺人のように、自分と人を傷つけるものを生んでしまいます。ダビデを殺そうとした兵士たちのように、人を狂わせるものが孤独です。ダビデはこの試練に直面した時、まず立ち止まって神様に祈り、自分を愛しておられる神様を信じることから始めました。孤独の中にある時、私たちは動くのではなく、止まることを意識しましょう。神様はダビデに語りかけて下さいました(8)。神様は涼しい顔で上からダビデに指示を出すのではなく、ダビデと共にいて感情的に力強く励まされました。同様に、私たちが孤独を感じる時、神様は私たちと共に痛み、力強く励まして下さり、人生を共に歩んで下さいます。信じて孤独に打ちかっていく、そのような信仰生活を送りたいと思います。

 

天の父なる神様、神様が私たちの孤独に寄り添って下さるお方であることを、今日聞きました。心の通わない、薄っぺらい人間関係が多いように思います。それなのに、あなたは足りない、できないと急き立てられるような思いになります。しかし神様、あなたは私たちが孤独を感じる時に立ち止まりなさいと、この世とは逆のメッセージを与えて下さっています。神様を信頼しています。だから私たちは、あなたの前にすべてを止めて立ち止まります。すべてのことを中断して神様の前に静まる、その中で神様の愛を知って孤独と戦っていく、どうか今週、私たち一人一人をそのように歩ませて下さい。(2022619日礼拝 武田遣嗣牧師)