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何事も賛美に変わる サムエル記第一30章11~20節

【新改訳2017】

Ⅰサム

30:11 兵たちは野で一人のエジプト人を見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。

30:12 さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二房の干しぶどうをやると、そのエジプト人はそれを食べて元気を回復した。彼は三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったのである。

30:13 ダビデは彼に言った。「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」すると答えた。「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。

30:14 私たちは、クレタ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィクラグを火で焼き払いました。」

30:15 ダビデは彼に言った。「その略奪隊のところに案内できるか。」彼は言った。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神にかけて私に誓ってください。そうすれば、あの略奪隊のところに案内いたします。」

30:16 彼はダビデを案内して行った。すると、なんと、アマレク人たちはその地いっぱいに散って食べたり飲んだりし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から奪った分捕り物が、とても多かったからである。

30:17 ダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを討った。らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかは、一人も逃れることができなかった。

30:18 ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。

30:19 子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。

30:20 ダビデはまた、すべての羊と牛を奪った。兵たちは家畜の先に立って導き、「これはダビデの戦勝品だ」と言った。

 

 ダビデは、家族と財産を奪い返すために、600人の兵士と共に出発しましたが、そのうち200人は疲れてベソル川を渡れず、途中で脱落してしまいました(9,10)。アマレク人はどこにいるかわかりません。しかも、彼らが逃げたかもしれないツィクラグの南は砂漠が広がっていて、誰にも道を尋ねることができないし、足跡はすぐ砂に埋め尽くされてなくなってしまう、ゴールがわからないのにひたすら進んでいく彼らには、大きな苦痛と疲労感が伴ったでしょう。しかしダビデは神様のことば(8)を信じて、とにかく南に下っていきました。

 すると、行き倒れのエジプト人がダビデの助けとして現れました(13)。彼はダビデに食べ物をもらうと元気になりました。そして、ダビデの町ツィクラグを襲ったアマレク人の奴隷だったことがわかりました。このエジプト人は、ツィクラグを襲った後病気になったので、アマレク人に捨てられてしまったのです。ダビデは彼からアマレク人の居場所を聞き出すことができました。これは神様のやり方だと思います。孤独の中で弱さを覚えているダビデと、捨てられ病の中で弱さを覚えているエジプト人、弱さを覚えている者同士を組み合わせ、協力させて神様の計画を進ませるのです。この世の弱い者を組み合わせ、協力させて、神様のすばらしさを現す、これは神様が教会に期待されていることではないでしょうか(Ⅱコリント12:9)

パウロは地中海周辺の町や国に神様の愛を伝えた人物で、コリントの教会建設にも尽力しました。しかしこの教会には様々な問題があり、自分の弱さを認めない、高慢な人々が沢山いました。だから皆が協力できず、教会が分裂を起こしていました。パウロはコリント教会への手紙の中で、弱さと希望を語っています。例えばⅡコリント12章には、自分が決して癒されない病気を持っていたこと、Ⅰコリ2章には、コリントに行った時、自分は弱く、恐れおののいていたと記されています。クリスチャンであることの喜びは、弱さを語ったら後は絶望ではなく、弱さと同時に希望を語れることだと思います。私たちが弱さを覚えている時に、神様は力強く働いて下さいます。

さて、サムエル記に戻りましょう。ダビデはアマレク人から全てを取り戻し、また兵士たちの信頼も取り戻すことができました(1720)。こうしてダビデの試練は終わりました。彼の試練は、喪失の試練と言い換えてもよいかもしれません。私たちが弱さを覚える時は、何か(財産、健康、家族など)を失っていることが多いのではないでしょうか。喪失の体験は、私たちに痛みを伴わせるものです。そして天国に近づくにつれ、私たちはこの世のものを手放していく喪失にも納得していかなければなりません。その一方、ダビデのように喪失の体験から神様を強く求めるようになるでしょう。

では喪失の体験をした時、私たちはどのように神様との愛を深めていけばよいでしょうか。それはイエス・キリストに目を留めることだと思います。私たちは年を重ねるにつれ喪失体験をするかもしれませんが、イエス様は私たちのために全てを失ったことを常に心に留めておきましょう。イエス様は人の罪をゆるすために十字架にかかって、その時に命だけでなく多くのもの(十二弟子、健康、名誉、人としての尊厳)を失いました。さらに神様から見捨てられ、神様との関係性も失いました(マタイ27:46)。確かに、ダビデも家族や財産を失いましたが、神様との関係性が失われることはありませんでした。これは私たちも同じです。私たちが孤独になる時に、神様がそこから離れることは絶対にありません。もし私たちが喪失の体験をしているのであれば、このイエス様の十字架の愛を知る時かもしれません。私たちが死ぬ時、目に見えるものはすべて置いていかなければなりません。しかし、人生で何度か起きる喪失の試練によって神様の愛を深く知るのであれば、その愛は天国に持っていくことができます(Ⅰコリ13:13)。私たちは喪失に絶望するのではなく、喪失したものの代わりに神様が何を与えようとして下さっているのか、みことばを通し共に考え、歩んでいきたいと思います。

 

主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(ヨブ1:21)。天の父なる神様、私たちは神様から与えられ、また取られる者です。私たちが自分で持っているものはありません。全ては神様に与えられ、管理を任されているものです。主よ、私たちは時に喪失の体験をすることがあります。しかし喪失の体験の中で、ダビデのように私たちにも神様が語って下さっていることを、今日学びました。どうぞ、一人一人の喪失の体験と共にいて下さって、あなたがいつも神様の愛、また神様への信仰を教えて下さるようにお願いします。(2022626日礼拝説教 武田遣嗣牧師)