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恵みの雨はみなに降る サムエル記第一30章21~31節

【新改訳2017】

Ⅰサム

30:21 ダビデは、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来た。彼らは、ダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデは、この人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。

30:22 ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」

30:23 ダビデは言った。「兄弟たちよ。【主】が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。

30:24 だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」

30:25 その日以来、ダビデはこれをイスラエルの掟とし、定めとした。今日もそうである。

30:26 ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。「これはあなたがたへの贈り物で、【主】の敵からの戦勝品の一部です。」

30:27 その送り先は、ベテルの人々、ラモテ・ネゲブの人々、ヤティルの人々、

30:28 アロエルの人々、シフモテの人々、エシュテモアの人々、

30:29 ラカルの人々、エラフメエル人の町々の人々、ケニ人の町々の人々、

30:30 ホルマの人々、ボル・アシャンの人々、アタクの人々、

30:31 ヘブロンの人々、すなわち、ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。

 

 ダビデの兵士は全部で600人いましたが、アマレク人を打倒したのは、そのうちの400人でした。残りの200人はアマレク人に追いつく前に疲れ果ててしまい、ベソル川のほとりにとどまっていました。アマレク人と戦った者の中には、分捕り物はこの200人の者たちに分け与えるべきではない、と言う者がいました(22)。頑張った者だけが報酬を得られるという考え方は、個人主義に傾倒している現代では普通かもしれません。しかし聖書は彼らを、「意地の悪い、よこしまな者たち」と記しています。また、ダビデも彼らを厳しく戒めています(2324)。ダビデがすべて自分の手柄だと言っても、誰も非難しないでしょう。しかし彼は、「主が私たちに下さった物」と言いました。自分の気持ち、肉体、信仰を支えて下さったのは神様だと信じていたのです。一方、戦いに出て行った者だけで戦勝品を分けようとした者たちは、すべての物は神様から与えられるという教理を知っていたはずですが、心の底からそれを信じることができていませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちが献金や奉仕をする時、すべての物は神様から与えられている、だからその一部をお返しするのだという思いがなくなると、人をさばくようになったり、クリスチャンであることに苦しくなったりするかもしれません。私たちは与えられているすべてに、ダビデのように感謝していきたいと思います。そして今後も、神様が心、体、信仰を支えて下さることを信じて、受けるよりも与える者になっていきたいと思います。

 次に、私たちは与えられているすべての物を管理する使命が与えられています(26)。ツィクラグでの毎日は、サウルから逃げ回っていた頃より平和でしたが、ダビデは、神様から次のイスラエル王になることを告げられていました。ですから、ダビデはいつかイスラエルに帰らなければなりません。彼はこの神様の計画を進めるために、ヘブロンを含むイスラエルのユダ地域の友人たちに、今回の戦勝品を送りました。その後、ダビデはツィクラグを出てヘブロンに移り住み、イスラエルの王になったのです(Ⅱサムエル2:34)。私たちは自分の財産、賜物をどのように管理し、使っているでしょうか。

 ここで星野富弘さんの詩を一つ紹介します。

『新しい命一式ありがとうございます

大切に使わせて頂いておりますが

大切なあまり仕舞いこんでしまうこともあり

申し訳なく思っております

 

いつもあなたが見ていて下さるのですし

使いこめば良い味も出て来ることでしょうから

安心して思い切り

使って行きたいと思っております』

コロナウィルス感染の中、命を守ることは声高に叫ばれていますが、命を使うことに関してはどうでしょうか。神様から与えられている命、細かく言えば財産、賜物、時間を、ダビデのように神様のご計画のために管理して使うように、今日の箇所は私たちに語りかけています。

 さらに、私たちの救いも神様から100%与えられるものです。しかし、自分がやり遂げたから救われるだろうという律法主義的な発想にすり替わっていくと、私たちはどこか自己中心的になっていくものです。私たちは罪の中から、神様の愛と哀れみによって救い出されました。すべてが与えられたものだと感謝しつつ、今週も歩みたいと思います。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。すべての恵みは神様から来ています。しかし私たちの罪は、私たちを自己中心に向かわせ、神様に感謝せず自分に栄光を帰すことがあります。すべてが神様から与えられると安心して、この一週間を歩むことができますように信仰を与えて下さい。またそれぞれに与えられている物に応じてそれを管理し、上手に使っていく知恵も与えて下さいますようにお願いいたします。(202273日礼拝 武田遣嗣牧師)