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ダビデとサウル王 サムエル記第一31章1~13節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 31 ]

31:1 さて、ペリシテ人はイスラエルと戦った。イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺されて倒れた。

31:2 ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。

31:3 攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえにひどい傷を負った。

31:4 サウルは道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、私を刺し殺してくれ。さもないと、あの無割礼の者たちがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶりものにするだろう。」しかし、道具持ちは非常に恐れて、とうていその気になれなかった。それでサウルは剣を取り、その上に倒れ込んだ。

31:5 道具持ちは、サウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に身を伏せて、サウルとともに死んだ。

31:6 こうしてその日、サウルと三人の息子、道具持ち、それに彼の部下たちはみな、ともに死んだ。

31:7 谷の向こう側とヨルダン川の向こう側にいたイスラエルの人々は、イスラエルの兵士たちが逃げ、サウルとその息子たちが死んだのを見て、町々を捨てて逃げた。それで、ペリシテ人がやって来て、そこに住んだ。

31:8 翌日、ペリシテ人が、刺し殺された者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルと三人の息子たちがギルボア山で倒れているのを見つけた。

31:9 彼らはサウルの首を切り、彼の武具をはぎ取った。そして、ペリシテ人の地の隅々にまで人を送り、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせた。

31:10 彼らはサウルの武具をアシュタロテの神殿に奉納し、彼の死体はベテ・シャンの城壁にさらした。

31:11 ヤベシュ・ギルアデの住民は、ペリシテ人がサウルに行った仕打ちを聞いた。

31:12 そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。

31:13 彼らはその骨を取って、ヤベシュにあるタマリスクの木の下に葬り、七日間、断食した。

 今日はダビデとサウル(3031章)を比較しながら、両者の違いから信仰生活のヒントを得たいと思います。

 さて、ギルボア山(1)はイスラエルが戦いの拠点を構えていた場所で、イスラエルの兵士たちはここで休んだり、食料を備蓄したりしていました。そこまでペリシテ人に攻め込まれたというのは、イスラエルが大敗しているということです。ダビデの親友ヨナタンは死に、サウルに攻撃が集中したことで、彼が深手を負っていたことがわかります。このような絶体絶命の状況において、サウルは自死を選びました。サウルは目の前の状況が好転したら喜び、信仰深くなり、逆に状況が悪くなるとひどく落ち込み、神様のことが見えなくなって罪を犯す、という人物でした。一方、30章でダビデはアマレク人に愛する家族や財産を奪われ、目に見えるものはすべて失った状況にありながら、神様に祈り、期待することでアマレク人に勝利していきました。ダビデは目に見える状況は絶望であっても、力ある神様を信じていました。目に見えるものだけを信じる(サウル)か否か(ダビデ)、これが両者の明暗をはっきりと分けたのです。私たちはサウルのように、今見える状況に一喜一憂していないでしょうか。それともダビデのように、まだ目には見えないけれど天国や将来の希望を持ち続けることができているでしょうか。

 ヤベシュ・ギルアデの住民(11)とは、以前サウルに助けられた人達のことです(Ⅰサム11)。

彼らはアンモン人に支配されようとしていたのですが、サウルに助けられた過去があります。ですから、ペリシテ人にさらし者にされていたサウルの死体を、勇気をもって取り下ろし、手厚く葬ったのです。ダビデやイスラエルの住民たちは、サウルの死を悼みました(Ⅱサム1)。今回私が大きな発見だと思ったのは、サウルがあれほど奪われることを恐れていた尊厳や名誉が、死ぬまでサウルと共にあったということです。サウルは、与えて下さる神様を信じることができませんでした。これに対してダビデは、アマレク人が全てを奪い去った後も、神様がまた与えて下さると信じて疑いませんでした。彼らから奪い取った戦勝品も、主が下さった物(30:23)と信じていました。私たちは、奪われる不安の方が大きいでしょうか。それとも、与えられる希望の方が大きいでしょうか。神様を愛する者に、必要なものは必ず与えられます。サウルは奪われる不安に怯えていましたが、ダビデは与えられると信じていた、これが両者の明暗を分けたわけです。

 しかし、ダビデにも心の罪がありました。彼はサウルのように名誉にはあまり関心はなかったのですが、異性の誘惑に非常に弱い人でした。バテシェバという人妻を手に入れるために、夫ウリヤを間接的にですが殺してしまいました。しかしサウルと異なるのは、ダビデがすぐに悔い改めて方向転換をしたことです。私たちもダビデのように、すべてを打ち明けて悔い改めることができているでしょうか。

 最後に、ダビデ契約(Ⅱサム7:1216)についてお話します。ダビデが先祖と共に眠りについた後、ダビデの子孫が王国を確立する、このダビデの子孫こそイエス・キリストです。そしてイエス・キリストが建てあげる王国は神の国、天国と呼ばれるものです。サムエル記第一は、サウルを通して私たちに罪の現実を示し、サウルの悲惨な死で幕を閉じます。何と悲しい終わり方でしょう。しかし、物語はまだ途中です。サムエル記第二に、イエス・キリストによる救いが示されています。イエス様は命まで投げ捨てて、信じる私たちに救いを与えて下さいました。命まで与えて下さった方が、私たちの神様なのです。奪われる心配をする必要があるでしょうか。サウルのような罪を持った私たちにも、イエス様は必要なものを与えて下さるのです。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。私たちは目に見えない神様を忘れて、サウルのように目に見えるものにすがりつき、罪を犯す者です。しかし神様は、私たちにみことばを通して、またこれまでの私たちの人生を通して、はっきりとイエスにある希望を示して下さっています。どうぞ、私たちが目に見えるものにだけ信頼を置くのではなく、私たちを愛し、救おうとして下さり、必要を与えようとして下さるイエス・キリストに目を向けることができるように助けて下さい。(2022710日礼拝 武田遣嗣牧師)