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イエスの生涯 ローマ人への手紙10章8~11節

【新改訳2017】

ロマ

10:8 では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。

10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

10:11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。

 8月からヨハネの福音書を学んでいきたいと考えています。今日はその導入として、イエス様の生涯(受肉、十字架、復活)についてお話をします。

 第一に、受肉とは神様であるイエス様が人となられたことです。「初めにことばがあった」(ヨハネ11)とはイエス様を指し、イエス様は神であったと書かれています。さらにイエス様は「人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)とあります。1,14節から、この世界をつくられた神様が、この世界に人間として生まれたということがわかります。イエス様は人間として私たちと同じように喉がかわき、私たち以上に、十字架を始めとする悲しみや苦しみを経験されました。天国で偉そうに私たちを見ていればよかった神様が、なぜ人となって降りてきて下さったのでしょうか。それは神であり、人であるイエス様でなければ、私たちを罪から救うことができないからです。もしイエス様が人でなかったら、人の罪の身代わりにはなれません。そしてイエス様が神様でなかったら、私たちの罪の身代わりにはなれないのです。罪人の身代わりになれるのは、聖い神様だけです。イエス様は生涯、多くの奇蹟をしましたが、受肉こそ最大の奇蹟です。イエス様は、私たちが今日抱えている罪から私たちを救い出すために、クリスマスの日に人となって来て下さいました。

 第二に、十字架について見ていきましょう(ヨハネ417,18)。イエス様の十字架上での苦しみは、想像を絶するものでした。肉体の苦しみ(体に釘を刺され、木にはりつけにされた)、精神の苦しみ(弟子たちの裏切り、人々の罵倒)、霊的な苦しみ(神様と離れ離れになる絶望)という三重苦を、イエス様は十字架上で耐え忍ばれました。どうして、イエス様は十字架にかからなければならなかったのでしょうか。この世界が創造された時、人と神の間には愛の関係性がありました。人が神様に語りかけたら、神様は答えて下さいました。しかし善悪の知識の実を人が食べ、人に罪が入ると、神と人は離れ離れになってしまいました。罪は放っておくと死に至ります。この死の身代わりになって下さったのがイエス様でした。私たちがイエス・キリストを信じるなら、私たちの死はイエス様の十字架によって取り去られ、永遠に神様と親しい関係になることができます。覚えておきたいのは、神様との断絶から神様の子どもになるということです(ローマ8:15)。これがイエス様の十字架が私たちにもたらすものなのです。

 第三に、復活についてお話します(ヨハネ20:1,2)。イエス様の復活が壁になって、キリスト教を信じられない人も多いかもしれません。しかし私は、復活を信じることはとても理にかなっていると思います。ここで、聖書の中でわかる復活の証拠を三つ挙げます。一つは、イエスの墓が空だったことです。この墓を守っていたのは、当時世界最大の国であったローマの兵士でした。もし、弟子たちが墓が空になったと嘘を言いふらしたのなら、ローマは自分たちの名誉のために、この嘘を封じ込めたはずです。しかしローマはそれができませんでした。遺体がなくなったのが事実だったからです。二つ目は目撃者の多さです。イエス様が復活した姿を見た人の数は五百人以上(Ⅰコリ15:6)で、五百人が皆嘘を言うのは不可能です。イエス様が十字架にかかって死んだだけなら、イエス様は期待外れの大噓つきのはずで、五百人で口裏を合わせて嘘をつく必要はありません。三つめは、弟子たちの命がけの宣教です。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、皆殉教の死を遂げました。彼らは、自分たちも十字架を負って復活の希望に生きる者へ変えられたのです。そして世界中にイエス様の愛と救いが宣べ伝えられていきました。もしイエス様の復活が嘘なら、彼らの宣教のパワーは一体、どこから来たのでしょうか。

復活はそれを信じた者に新しいいのちをもたらします(ガラ2:20)。このいのちは肉体が滅んでも、天国で生き続けるいのちです。そのいのちが既に私たちの内にあります。私たちは戦争、ウィルスなど色々なもので死を近く感じているかもしれませんが、信じる者の内には、決して尽きることのないいのちの水が湧いているのです。

CSルイスは「イエスは救い主か変人か、二者択一である」と語りました。もしイエス様が救い主でなかったら、彼は救い主でもないのに「あなたの罪はゆるされた」と語り、何の意味もないのに十字架にかかって死んでいった変人でしょう。イエス様は本当に救い主なのか、真理を求める目と耳を持って、8月からヨハネの福音書を聞いていきましょう。そして私たちが心の底からイエス様を救い主だと認めるなら、弟子たちのように熱い思いをもって、イエス様の愛と救いを宣べ伝えていきたいと思います。

 

天の父なる神様、今日はイエス・キリストの受肉、十字架、復活を共に学びました。イエス様は神としてのあり方を捨てられないとは考えないで、ご自分を無にして人となって下さいました。そして十字架にかかり、苦しい思いをして、私たちの罪の身代わりとなって死んで下さいました。しかしイエス様は三日後に復活し、私たちもその復活のいのちにあずかり、永遠のいのちに生きる希望を持っています。主よ、どうぞ私たちはまず自分自身の心を吟味し、イエス・キリストを信じているのか、イエス様と共に歩みたいと願っているのか考え、あなたと共に歩んでいくことができますように。(2022717日礼拝 武田遣嗣牧師)