健全な人間関係を築く鍵

 

 学校ではいじめ、家庭では虐待、職場ではパワハラ、セクハラなど、人間関係に悩んでいる方はたくさんおられます。親子関係には選択の余地がありませんが、誰かと関りを持ち(結婚、友だち、ビジネスのパートナーなど)、その結果悩んでおられる方に「(相手のことが)わからなかったのでしょうか」と聞くと、ほとんどの方が「良い人だった、こんな風になるとは思わなかった」と答えられます。さらに「どんな人と関わりたかったのですか」と聞くと、大体「一緒にいて楽しい人、親切にしてくれる人、前向きな人、やさしい人、学歴やお金のある人」といった答えが返ってきます。これらはとても大切なことです。しかし、やさしい人だと思っていたけれど、関わってみると決断力に欠けるとか、一貫性がないという場合もあります。私たちは相手に抱いていたイメージと異なる側面を見た時、落胆したり、両極端の見方をしたりして、健全な人間関係を築けないことがあります。

 

 では、健全な人間関係にはどんな特徴があるでしょうか。それは第一に、親密であるということです。親密とは、他者の幸福を自分の幸福と同じように願う、同等の関係です。第二は、「私たち」という関係です。つまり、悲しい時に共に悲しみ、喜びの時に共に喜ぶ、共感できる関係です。第三は、相手の自由を尊重する関係です。つまり、「ノー」が言える関りです。「ノー」の言えない関りからは、真の愛は育ちません。神様は、私たちを「ノー」と言えない関りとしてつくられたわけではありません。神様に対し、私たちは能動的に、「ノー」の言える中で、神様に従うという選択をすることができます。第四は、へつらわず、立ち向かうことができる関係です。胡麻をするのではなく、何かあれば率直に思うところ、事実を伝えられるということです。私たちは関りの中で、「愛をもって真理を語る」必要があります。第五は、責めるよりゆるす関係です。ゆるしのない関係には、真の愛は成長しません。

 

 次に、健全な人間関係を拒む要因についてお話しましょう。第一は妬みです。妬みのあるところには、愛は生まれてきません。そして妬みがあると、自分が持っているものを過少評価してしまうので、なかなか感謝ができません。第二は自己満足です。自己満足に陥っていると、自分の足らなさを体験するのを邪魔してしまいます。第三は利己的、自分は特別という思いです。

 

 どうしたらこれらを克服し、より健全な人間関係を構築することができるでしょうか。第一は、自分が神様に愛されているという確信から関わることです。神様に愛されているという確信が自分の内側にある時、妬みの対象になったり、共感してもらえなくても必要以上にダメージを愛けないものです。逆に愛されているという確信がない中で、不健全な態度をとられると、ショックを受け、不安から相手の言うなりになってしまい、「私たち」という関係を築くことができません。第二は、義を行うことです。問題のある人間関係の原因の一部は、自分にもあります。自分の問題に気づき、自分の側の義を行うなら、その変化は相手にも影響を与えるでしょう。第三に、他者に助けを求めることです。私たちの長所、短所を知るには、他人の助けが必要です。エペソ416「組み合わされ」には、建築用語が使われています。「古い自分」が関りによって削り取られ、組み合わされていく時に、ストレスに耐えうる関りが確立していきます。また「結び合わされ」は医学用語で、ずれた骨をもとに戻すという意味です。様々な人間関係のずれをもとに戻す、ゆるされ、ゆるすという関りの中で健全な人間関係が確立していきます。最後は、現実を受け入れるということです。つまり、他者に対し自分の期待に固執しないことです。他者との関わりの中で、相手に完全を求めてはなりません。

 

 今日は健全な人間関係とは何か、それを阻む要因、どうしたらそれを克服できるかについて、ほんの一部をお話しました。(以降は質疑応答)

 

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2018年新年聖会

11章
1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(創世記11:1~9)

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わくわくサマーキッズ

午後2時から、生田丘の上キリスト教会の宣教キャラバンによる子供会、「わくわくサマーキッズ」が行われました。子ども5名、保護者2名が参加して、腹話術(初めに、神が天と地を創造した。―創世記1:1―)やゲームを楽しみました。

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JECA東関東地区 2017年夏期聖会

 

JECA東関東地区では、716日(夕方)~17日(月)、夏期聖会が持たれました。

 

テーマ:「キリスト者の成長」~神の教会を共に建て上げる~

 

講師:北海道地区札苗ライトハウス教会 堀田修一牧師。(以下レジュメより抜粋)

 

 

聖会Ⅰ 「神に喜ばれる教会を共に建て上げる」

 

神に喜ばれる教会とは、

 

1)互いに深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容をもって互いに聴き合う教会

 

判断力を失わない愛の同情心を持つ、即ち相手の気持ちを受け止める聴き方をする。男性と女性の違いを認め合いながら、主の教会を建て上げる。

 

2)互いに、まず主の愛を受けて、赦し合う教会

 

教会には、赦される必要のない完全な人は一人もいない。だから神は、教会に向かって「赦しなさい」と言われる。ある人をどうしても赦せない時、自分の力で赦そうと頑張っても難しい。しかし「主があなたがたを赦してくださったように」とある。恵みが先行していることを覚え、感謝し続けよう。主は他の人を赦す心を私たちに与えて下さる。

 

3)キリストの平和が支配する教会

 

教会のかしらはキリストのみ。かしら、支配者がキリストである教会を、私たち人間が支配してはならない。

 

4)神の恵みを忘れず数え、感謝の心を持つ教会。神と人に感謝する教会。

 

教会は、主が牧師を与えられている恵みを感謝する。牧師は、教会員が色々な戦いの中で礼拝に来られることを感謝する。ゼロからの開拓伝道は、牧師夫婦二人だけの礼拝から始まることを忘れてはならない。主の恵みに感謝しつつ、教会員が主からの賜物に応じて奉仕を分担し、そのおかげで、教会の命である「祈りと御言葉の奉仕」に牧師が専念できる恵みを感謝したい。その時、教会は神により成長する。

 

5)キリストのことば、御言葉を住まわせる教会

 

①毎日のディボーションと聖書通読、②毎週の礼拝、③互いに恵みを分かち合う小グループでの交わり、この三つのバランスが大切である。

 

 

 

聖会Ⅱ 「キリスト者の成長」

 

1)私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長する(Ⅱペテロ318)。

 

2)神の先行する恵みへの応答、感謝から生まれる礼拝、信仰生活(ローマ121、哀歌322

 

3)奉仕の前に大切なのは、神との親しい関係。まず、自分自身を神にささげていなければ、神の栄光ではなく自分の栄光、自己実現のための奉仕となってしまう。

 

4)この世の罪と調子を合わせたままの奉仕は祝福されない。奉仕をさせていただけることを感謝しつつ、奉仕と共に自分自身が主の御姿に成長し続ける者でありたい。

 

5)聖さの成長。「聖くなる」ことが最終目標となる時、聖くない人をさばく律法主義となる。「聖くなる」ことの最終目標が「神を喜ばす」、神に近づき神との交わりを楽しむことである人は、他の人を見下げない喜びの人、愛の人、聖い人、成長する人となる(Ⅰテサロニケ41~3、ヤコブ516)。

 

6)愛と聖なる勇気をもって関わる成長。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1334)とは、互いに理解し合うことである。理解し合うことは、問題が大きく公になってからでは難しいことが多い。感情的に信頼関係が崩れると、同じことに対しても「受け止め方」が大きく違ってくるので、修復が難しくなる(マタイ1815、ガラテヤ61)。日頃からコミュニケーションを大切にする。メールには限界がある。祈りつつ、「主を間に置いて」、直接対話することが大切。

 

7)主を喜び、讃美、感謝する。願い事、課題が先ではなく、感謝が先。課題だけ祈る時、祈りの中でも神を見上げず、心が課題に捕らわれる。聖書に従い、まず讃美、主の恵みを数え感謝をする時、心が神に向く。それから課題を正直に祈る時、心は神に向き、神の視点でその課題を正しく見ることができるようになる。神の恵みを数え、与えられているものを心から感謝したい(Ⅱコリント129、ヘブル135)。

 

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2017年新年聖会(2017.01.09)

 

 創世記127

 

 今年は「御言葉に立つ一年」というテーマが掲げられ、いろいろ思い巡らしているうちに、「御言葉に立つ人間観」ということに思い至りました。

 

創世記127には、人間がどのようなものであるかが、特徴的に描かれていると思います。第一に、人間は神に創造されたもの(被造物)だということです。この人間の被造性は、決定的に人間が神に依存していることを示しています。つまり、人間は神によってつくられ、生かされているということです。第二に、神のかたちとしてつくられたということです。人間だけが神のかたちを持ち、神に似せてつくられています。これはよく考えるとすごいことです。私たちのどこに、神と似ているところがあるのでしょう。たとえば高度な言語を使う、宗教を持っている、意思、判断する力を持っていると言う人がいます。確かに私たちは言いなりのロボットではなく、自分で良いものを選ぶことができます。近年は、この選択が軽んじられているように思えます。自分で考えない、決めない、責任を負わない、いつも誰かに判断してもらい、誰かのせいにしている。しかし人間は自立した存在として、自分の人生を生きていくことができるのです。より良いものを選んで神に喜ばれる、失敗の責任を受けとめて悔い改める、どうしたら神に喜ばれるかを考えていく、人間は自分で人生を歩むからこそ、豊かで輝いたものになります。人間は神によってつくられた被造物です。人間は神の前にへりくだり、謙虚にならなければなりません。また神を恐れなければなりません。同時に、人間は神のかたちを持つものです。よく考え判断し、自分の責任で様々なことにチャレンジしたいものです。

 

では、神のかたちとはどういうものでしょうか。それは、神がどのような方であるかということと、密接につながっています。ある学者は神の性質を三つの分野に整理しました。第一は聖さです。人間は神の聖さに与るべく存在しています(レビ192、Ⅰテサ43~8)。第二は真実(誠実)さです(エレ101~10)。主は真の神であり、神の真実は偽ることがありません。私たちも誤魔化したり、嘘を言ったり、騙したりしてはなりません。そして神の真実は信頼できるものです。語ったことを果たされます。私たちも信頼される生き方をしたいものです(ヤコブ512)。第三は愛です。神の愛は慈愛、恵む愛、憐みの愛です。また神の愛は忍耐でもあります。神は怒るに遅く、寛容な方です。そしてこのような神のかたちを現すことが、人間の使命なのです。

 

今回は、三つの分野のうち「神は愛である」ということに注目したいと思います。私たちは、「愛」というテーマが聖書の中で最も中心的であることを、幾つかの箇所から知ることができます(Ⅰコリ1313、マルコ1228~31)。もしこれらの御言葉を受けとめ、御言葉に立って人間を考えるなら、私たちが愛に生きることが神のかたちを現していることだと言えます。

 

愛に生きる人間は、確かに素晴らしい、でもできるわけがありません。だからイエス様を見上げます。イエス・キリストは人となって、神のかたちの生きざまを見せて下さいました。たとえば、キリストはザアカイの利益をはかられました(ルカ195~69~10)。相手(犯罪人)の値打ちによらないで接し、愛されました(ルカ2339~43)。憐み深く(マタイ82~3936~38)、忍耐のお方でした(ヨハネ131~5)。主イエスは神の御子でした。しかし、完全な人間でした。主イエスは神のかたちを持つ人間となられて、神の愛を現しました。主イエスを見上げ、主イエスに見習うなら、私たちも愛することができるようになります。そしてイエスの弟子であることがわかります。これこそが、神のかたちなのです。イエス・キリストを見るならば、神の愛がわかります。そして私たちはキリストのうちにある神の愛を見て、私たちのうちにある神の愛のかたちが新しく生き始めているのを感じないでしょうか。相手のためを思い、相手がどんな人であっても与え、かわいそうに思って寄り添い、自分が不利になっても忍耐する、そのような神の愛が生き、活動し、育ち始めています。私たちは愛することができるようになっていくのです。それは、私たちが神のかたちにつくられているからです。

 

 今年一年、神の愛の創造のみわざが、お一人お一人の上に実現しますように。

 

天地万物をおつくりになった父なる神様、あなたがおつくりになった私たち一人一人の神の愛のかたちが生き、育ち、現れ、神の栄光となりますように。(2017年新年聖会午前  水戸下市教会 渡部和彦牧師)

 

 

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