苫小牧から(2019.11.08)

 

⑪再婚

 10数年前、小生が中咽頭癌になった頃、夫婦して相手が先に召された後、どのように生活するかを話し合った。当時二人とも自分が先に召された場合は、是非再婚して欲しいと願った。小生は「もちろん再婚するよ」と言い、澄代は「しない」という意見だった。

 

 あれから時が過ぎ、小生は70後半になり、澄代も70になろうとしている。澄代はだが 10数年前と変わらず若々しく思うので再婚は現実的であろうが、小生にとっては非現実的である。

 

 夫人を天に送った友人は70前後で非常に元気である。これから一人で生活し、牧会するのか。それとも再婚をするのか。

 

 これまで友人の中で伴侶を天に送ったのはあまりいないが、ただ一人いる。彼らは20才代後半に同じ教会で導かれ家庭を築いた。一男二女が与えられ、一家して主の教会に全力で仕えておられた。ところが兄弟が50歳代に入った頃から、それまでのムリがこたえたのか重い病気をいくつも患い、それを夫人が支えていた。それでも教会と職場で忠実に奉仕し続けた。兄弟は入退院を繰り返していたが60才代半ばで召された。残された夫人は再婚をせず単身で仕事をしながら教会に仕えて今日に至っている。

 

 小生が先に召された場合澄代はどうするだろうか。小生が縛ることは出来ない。小生が願うのは、小生と共に主に仕えた苦労からも解放されて、澄代の賜物が生かされる道を選びとって欲しい。

 

 逆に、もし澄代が先に召された場合、小生はどうすべきか考えていなければいけないのだが、まとまらないのである。

 

 

⑫祈り会

  糸井教会の祈り会は水曜日午前10時から行われる。集まった兄姉が、みことばの光でその日読む所を輪読し、数分間黙想した後、教えられたことを分かち合う。

 

 それに対して、批評をすることなく受け止めるだけである。牧師も出席者の一人として兄姉の教えられたことを聞き、自分も教えられたことを短く語るだけである。

 

 出席者が多い時は10人近くなる。礼拝出席者が同じように10人前後なので、礼拝出席者と祈祷会出席者がほぼ同数である。このような教会は稀ではないかと思う。多くの場合、礼拝出席者の12割が祈祷会出席者ではないだろうか。礼拝出席者10人前後ということがあるにせよ、礼拝出席者がほぼ全員祈祷会に出席すると言うのは驚きである。

 

 糸井教会は約40年前、OMFの宣教師が開拓したため、OMFの祈りの伝統が継承されているのだろうと感じている。祈りの内容も、教会内だけでなく、超教派の働き、送り出している有沢宣教師の働き、OMFの祈りのカレンダーによる課題等を祈るのである。前任の沼田師(現 青森福音キリスト教会牧師)の良き指導もあったのに違いない。

 

 このOMFの良き祈りのスピリットを絶やすことなく、祈りの教会として継続したいと祈るのである。

 

 

信友たちの交わり

 

 89日、北広島に住む米谷和雄・明美夫妻宅で、シカゴから一時帰国した安納義人・恵子夫妻と娘さん。その姪御さんの飯田夫妻が岩見沢から。札幌から小林基人さん。それに小生たちの交わりがあった。数年ぶりの再会もあれば何十年振りの再会もあった。

 

 昨年、シカゴの安納さんが脳の大病を患ったが、主の憐れみによって奇跡的に回復し日本までの長旅にも耐えられるようになったので、小生たち友人は驚きつつ、主を賛美していた。

 

 今回安納夫妻と娘さんを囲んで、信友たちが久しぶりの神の家族の交わりを持つことになったのである。姪御さんの御主人、飯田さんは岩見沢で日本イエス教会で牧会をしている40代後半の働き盛りであった。彼が尺八を演奏してくれて、老いた信友たちの交わりに花を添えてくれた。

 

 安納さん、米谷さん、小林さんはある神学校の同級生で、そのころから祈り合う仲間であった。それから約50年が経っても連絡を取り合い、常に祈り合う信仰の友なのである。今回も同級生の一人が8月になって召されたことが報告された。彼は神学校の同窓生名簿にも記載されてないにも拘らず個人的に消息を知らせ合っていたそうである。それを聞いて、信友の愛のすばらしさに教えられたものである。

 

 安納さん、米谷さん、小林さんというすばらしい信友たちの愛のおこぼれに与っているような者であるが、彼らの様に愛の実践を少しでもするようになりたいものである。

 

 安納さん夫妻は814日にシカゴに戻るそうである。主が彼らをシカゴで守り、豊かに用いられるように祈るばかりである。

 

 

再び苫小牧に

 

 911日(水)に再び苫小牧に来た。茨城空港1730発の予定が雷雨のために大幅に遅れ、1840頃出発した。千歳空港には20時過ぎに到着。糸井教会の鴇田さん夫妻が出迎えてくれた。糸井教会についたのは21時過ぎだった。茨城では暑くて仕方なかったが、千歳に着き建物の外に出ると寒い。長袖のシャツに毛糸のカーデガンを着てちょうど良かった。牧師館に入ってすぐストーブを点けたのである。

 

 最高気温が30数度あった那珂湊から、最高気温20数度の苫小牧に来て、体が驚き、適応するのに時間がかかりそうである。

 

 夜寝る時も、Tシャツ、ショートパンツから、長そでシャツ、長ズボンに衣替えである。

 

 同じ北海道でも苫小牧は南なので、暖かい方である。20184月までいた旭川までは200km位あり、気温は全然違うのである。関東地方と苫小牧との差と、苫小牧と旭川の差が同じではないだろうか。

 

 とにかく苫小牧は小生たちにとっては新しい地であり、初めての冬を迎える。どんな冬なのか興味津々であると同時に不安でもある。

 

 主がこんな老いぼれをもこの地に耐えさせて下さると信じる外はない。「主よ憐れみ給え」である。       

 

 

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苫小牧②

 

⑤北海道地区 教職者会

 

 

 

723()24()北海道地区教職者会が真駒内青少年センターで行われ、小生夫婦も出席した。50人の出席者だったと思う。小生が去年(2018)地区総会に出席した後、4月末に緑が丘教会を去ったので、1年数か月振りに地区の教職者に会った。新しい顔ぶれが多く半数くらいは知らないように思った。

 

 北海道地区は1993年、北栄教会を去り、2016年再び北海道の旭川緑が丘教会で奉仕した。先述のように約2年後の20184月に北海道を離れた。そして一年数ヶ月後の今月、苫小牧の糸井教会に着任したのである。小生の様に北海道を二度も離れたにも拘わらず、こうして3度目の北海道に出戻った者を喜んで受け入れて下さったことに感謝するのみである。

 

 1975年に北海道に来た時は31才で新婚であったが、3度目の今回は75才で、類天疱瘡と下垂体前頭葉機能障害という難病、狭心症の恐れ等ガタガタの体調と呆けとで全く異なる細川である。ステロイドの副作用でムーンフェイスになり、以前の小生とは別人のようで識別できない人が多い。それが哀しくて人に会いたくないのである。それでも今回の教職者会には、全国運営委員も参加していたので懐かしい顔もあり嬉しかった。特に浜田山教会から送り出した徳永さん(門戸教会)、加藤さん(朝日教会)の20数年前と変わらない爽やかな顔を見ると言葉では言い表せないほど嬉しくなった。また連合発足当時から事務の働きをして来た岡田兄や、藤本兄に会えたのも思いがけないプレゼントのようであった。

 

 これから2021年春まで糸井で、若い牧師招聘のために奉仕をする。その間、若い教職者たちに「あの呆け老人」と蔑まれるのだろうが、それに耐えて何とか召しを全うできるよう祈って欲しい。

 

 

 

 

 

⑥ひたちなかと苫小牧

 

 

 

 ひたちなか市と苫小牧市との類似点がいくつかあるように思う。先ず両市とも大企業の城下町である。ひたちなかは「日立」によって発展した街である。苫小牧は「王子製紙」にである。そのためひたちなか市の勝田駅前は「日立」が占領し、苫小牧駅前は「王子製紙」が占領している。また、どちらも「日製病院」と「王子病院」が市民の健康を支える病院として信頼されている。

 

 また、両市とも太平洋に面し、港町である。ひたちなか市は「那珂湊」という元々は漁港であるが、現在は「常磐那珂港」という大型貨物取扱港の機能も持っている。一方、苫小牧港は大型フェリーのターミナル港として本州と北海道を結ぶ重要な役割を果たしている。那珂湊の隣町大洗港と苫小牧を結ぶ大型フェリーはよく知られているところである。人口規模も両市とも15万程度のようである。

 

 一方、両市には違いもある。小生た苫小牧に来て何より違うと思うのは気候である。同じ太平洋に面しているが、那珂湊は晴天が多く、7月下旬ならば普通は30度以上になる。ところが苫小牧は晴れる日は少なく、霧が立ち込め、青空を見ることは殆どない。726日現在でも、最高気温が23度位で、朝夕ストーブを焚くことは稀ではない。

 

 苫小牧からはすぐ近くに白老温泉や支笏湖温泉等があり、支笏湖や洞爺湖等湖が近くにある。ひたちなかの那珂湊からは温泉地や湖は近くにない。

 

 これから苫小牧で、この地を愛し、楽しむことを見出していきたいと願っている。この地の人々を愛するためにも、イエス様がガリラヤ地方を歩き愛されたように、この地の風土を知り、愛するようになりたい。

 

 

 

 

 

⑦聖徒の召天に思う

 

 

 

 数日前、斎藤良子先生(東京基督教短期大学名誉教授)と吉持章先生(東京キリスト教学園名誉理事長)の召天を知った。斎藤良子先生は、小生が信仰に導かれた1963年頃には日本クリスチャンカレッジ(JCC) で教鞭をとるだけでなく、種々の超教派の研修会等で若い信仰者の教育に携わっておられた。そのため、小生も斎藤先生の講義を何度も受けたことを忘れられない。個人的に斎藤先生と親しく言葉を交わしたことはないように思うが、若い時に教えを頂いた方々として忘れられないのである。

 

 吉持章先生とは、先生がTCU はじめ種々の団体で重責を担っておられた頃、ある会議で同席した時、若かった小生は生意気にも先輩たちを恐れず勝手な意見を述べたりした。義持先生は責任ある立場で、そんな小生をたしなめるような態度をされた。それで小生は反発心を抱き、尊敬も出来なかった。

 

 先日、敬愛する先輩牧師から、吉持先生の召天を知らされた。その時、その先輩は吉持先生のことを「晩年になり益々謙遜になられた」と評しておられるのには驚いた。小生はずっと傲慢な働き人だと思っていたが、若い時はいざ知らず、晩年には「謙遜な人」と言われるようになっていたのに驚いたのである。同時に、人を先入観を持って決めつけてはいけないことを教えられた。吉持先生のように「謙遜な人」と評されるような晩年、生涯を送りたいものである。モーセが「謙遜な人」と呼ばれたように、「謙遜な人」と主から呼ばれるのは何とすばらしい賞賛の ことばではないだろうか。「優秀な人」「有能な人」と言われるのではなく「謙遜な人」と呼ばれるようになりたいものである。

 

 斉藤先生と吉持先生の召天に思わされたことである。

 

 

 

 

 

 

 

⑧道央・胆振・日高ブロック教職者の昼食会

 

 

 

 教会連合北海道地区は、北は稚内から、南は苫小牧、静内、襟裳。東は根室、釧路、西は函館、室蘭、ニセコ。と広大な地域に及ぶ。函館から道央の札幌まででも約250300㎞あるだろう。札幌から旭川までが約150㎞。旭川から稚内が約200㎞、また旭川から網走まで約300㎞。札幌から苫小牧が約100㎞。苫小牧から静内が100㎞。静内から襟裳までが約100㎞ある。

 

 このように広大な地域が一つの地区であり、それを六つのブロックに分け、ブロックごとに密度の濃い交わりを持つことが意図されている。

 

 先日、道央・胆振・日高ブロックの教職の交わりがあった。恵庭教会に着任した姜明善牧師と糸井に着任した小生たちの歓迎会をして下さったのだ。姜さんは南関東地区の大磯キリスト教会から恵庭教会に導かれたとのことで、釜山生まれの若さと霊に満ちた働き人である。初めての北海道で種々のカルチャーショックがあるだろうが、主の憐れみによって、この地で長く奉仕して欲しいものだ。小生はとにかく糸井教会に若い働き人を招聘するために召されたので、その使命を果たせるように祈ってもらった。北広島から襟裳まで200㎞以上ある地域に、教会連合加盟教会は5教会で、その他、日本キリスト教会、日本キリスト教団、日本福音同盟教団等、全てのプロテスタント教会は20数教会ではないだろうか。

 

 海外では各国、各都市に一教会くらいなので、教団、教派を超え一つになって礼拝し、主の民たちを守るのを、海外の日本語教会で奉仕して見て来た。それと同じように、この北海道では、教団、教派を超えて、教会がみな協力、一致することが大切なのである。連合の道央・胆振・日高ブロックの交わりだけでなく、この地域の諸教会との交わりの土台となれればと切に願う。

 

 

 

 

 

⑨パークゴルフ場

 

 

 

 糸井教会から25分ほど歩いたところに「糸井の森パークボルフ場」の立て看板があった。パークゴルフは北海道が発祥の地と言われている。そのためか、道内では古くから盛んに行われている。小生が以前札幌の北栄教会で奉仕していた時、北見キリスト教会に招かれたことがある。朝目醒めると朝日が燦々と降り注ぎ教会前の木立は木漏れ日で輝いている。そこはパークゴルフ場になっていたので、夫婦で早速プレ-することにした。それまで12度経験はあったので受付で道具を借り、グリーンの美しさと木漏れ日の美しさの中、二人で堪能した。その後、道内にいる間数回プレーしたと思うが、本州に移ってからは1度あったように記憶している。しかしその時は芝生ではなく、土の上だったように思う。

 

 今回、近くにパークゴルフ場があるのが分かり、夫婦で下見に行った。すると芝生の手入れは行き届き、普通のゴルフ場のフェアウェーやグリーンのようであった。そのパークゴルフ場は36ホールあり、山の裏側にもう18ホールあるとのことであった。地域の多くの人たちが楽しんでいるようで、1400余名の会員がいるとのこと

 

である。驚いたことに、ビニールハウスの中に芝生があり、冬でもそこでプレーできると言う。

 

 小生の体調からして、普通のゴルフは無理であるが、パークゴルフならば、澄代が同伴である限り可能かもしれないと思った。

 

 これから糸井で奉仕する約2年の間に、パークゴルフを試みてみたいと思っている、ただ、類天疱瘡は紫外線を避けなければならないので、晴天ではなく、曇りや霧の時に限られることである。一方芝の緑の美しさに魅了されてはいる。

 

 

 

 

 

 

 

⑩導きの不思議

 

 

 

 糸井教会で約2か月前に結婚した夫婦がいる。それぞれ再婚で70才前後である。男性は岐阜県出身で苫小牧近くの白老に移住して来られた。女性は道内の小樽出身で札幌で出会ったと言う。どのようにして70才近くになって結婚するよう導かれたのか、機会があれば詳しく聞きたいと思う。

 

 一方、同労者の夫人が昨日召されたという知らせが今朝あった。先述の夫婦のように70才前後で結婚に導かれることもあれば、同じ年頃で長年の夫婦生活に終止符を打たれる場合があると言うのが何とも不思議である。

 

 これまで多くの友人夫婦と交わりを与えられて来た。そして友人夫婦によって小生たちはどれだけ教えられ励まされ、慰められたか、一言で言い表せない。小生たちが今日あるのは主の恵みによるのは勿論であるが、友人夫婦によることも掛け値なく言えることである。

 

 しかも、これまで友人夫婦の中で、夫婦のどちらかが召されたということはなかったように思う。主の憐れみによって友人夫婦はこれまで夫婦そろっていたのである。

 

 だから、この夫婦は小生にとって、夫人を天に送った最初の友人である。この友人は年齢的には小生より数年若い。教会連合が設立される以前の単立連盟当時から、共に奉仕した。単立連盟から教会連合設立においてリーダーシップと発想力をもって、今日の教会連合の基礎を築いた一人である。小生は友人たちの中で特別に彼を尊敬して来た。この友人と単立連盟時代から教会連合設立期を共に奉仕出来た事を感謝している。そんな彼の夫人が召されたことを聞き、彼に何と声をかければいいのだろう。たくさんの友人の中で特別の友が最初に夫人を天に送るとは、主は何と言うことをなさることか。

 

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苫小牧①

 

PMFオケ公園を聴く

  

 苫小牧には710日夜到着した。そして14日、最初の主日礼拝奉仕であった。貧しい奉仕にも拘わらず主が憐れみによって用いて下さったと信じてお委ねしている。礼拝は小生夫婦を含めて10人で、聖餐式と、後に愛餐会もあった。 

 

 その翌日715日、思いがけずPMF オーケストラ公演を聴く恵みに与った。

 

 PMFはこの時機、札幌を中心に世界中の一流演奏家が集まる一大イベントである。2年前旭川 緑が丘教会奉仕の期間、PMFオケが旭川に来ないことが残念であった。ところが今回、全く想像外で、苫小牧到着五日後に聴けることになるとは、主の格別の恵みによる外はない。

 

 内容は4曲であった。J・アダムス、チャイコフスキー、プロコフィエフ、R・シュトラウスのものである。小生は演奏について批評することは出来ない。ただ、すばらしい演奏だったと言う外はない。

 

 その演奏を聴きながら考えていたことがある。それは演奏とは何重にも信頼と協力があって、初めて実現するのだろうということである。先ず、作曲者がある。どんなにすばらしい作曲をしていても演奏者がいなければ音になった曲を聴けない。演奏者は指揮者によって解釈された曲に従って演奏する。演奏者自身もその曲に取り組み自らの解釈と指揮者の解釈との折り合いをつけて実際に演奏するのだろう。しかも指揮者や演奏者の解釈が作曲者の意図する通りかどうかが常に問われるに違いない。

 

 色々と思い巡らすと、神ご自身がお書きになった聖書と、それを解釈し説教する牧師、その説教を聴く教会員の関係と似ているように思えて来た。教会が、神のことばを具体的に生きることは、作曲者の曲を具体的に音楽とすることのようである。

 

 どうにかして、すばらしい原曲であるみことばを、作曲者ご自身である神の意図に適った音楽を世に奏でたいと願わされた。PMFオケ講演会の恵みは、主の御言葉を表すようにとの新たな願いの招きでもあった。

 

  

②霧と寒さ

 

  苫小牧に来て一週間が経った。この間、晴れた日は一度もない。那珂湊では真っ青な空と朝は茜色になった東の空から日が上り、真っ赤に染まった夕焼けが見えた。しかし、苫小牧での一週間、太陽をほぼ見ることはなく、何度か雲に覆われた薄陽を見ただけである。朝は毎日霧が立ち込めている。道を歩く時、傘を差せばいいのか迷う。傘を差さないと濡れるようだし、差すまでもないようだ。教会の南側約50mには片側3車線のバイパスが通っているが、多くの車はヘッドライトを点けている。

 

 この霧のためか、陽が差さないからか、気温が低く寒い。最低気温は勿論、最高気温も20度以下ではないだろうか。寒がりの小生などはストーブを点けずにはおられない。以前から苫小牧の夏は気温が低いとは聞いていたが、実際に経験して納得したのである。何でもそうだが知識で知っているのと、体験的に知るのは全く別物だと分かったように思う。

 

 聖書のことばでも、信仰でも、単に知識で知っているのと、それを体験的に知るのでは全然違うことを思わされた。みことばを体験的に知ることが大切だと今更ながら知らされたのだから、毎日みことば体験するよう求めて生きよう。

  

友、遠方より来る

  

 ベルギーのブリュッセルから信仰の友が苫小牧の小生たちを訪ねて来た。彼とは3年前、小生たちがブリュッセル日本語教会で奉仕した時に親しい交わりが与えられた。最初に出会ったのは10年前、ヨーロッパキリスト者の会がスイスで行われた時、湖上を巡る船の甲板のベンチであった。その時は深く語り合うことはなかったが、彼のことを忘れることはなかった。

 

 3年前ブリュッセル教会で奉仕した時、彼も時々出席していたので親しく交わるようになった。彼はカトリックの忠実な信者であった。元々北海道の静内・日高近辺で中学まで育ち、高校は新潟で送り、高卒後、札幌で浪人生活を過ごしたとのことである。その浪人時代に校門でもらった一枚のトラクトを読み、近くのアッセンブリ―教会に通うようになった。大学は新潟大学に進学し、フランス語を専攻した。そのフランス語教師がベルギーからのカトリックの神父で、信仰に導かれたとのことである。大学卒業後ベルギーに留学し、ベルギーの女性と結婚し、今日まで約40年歩んできたのである。

 

 小生たちがブリュッセルにいる時、牧師館に来てカトリックの信仰書を紹介してくれた。それまでカトリックの信仰書を皆無と言っていい程読んだことはなかった。だから彼が貸してくれる本は小生にとって難しかった。と同時に、目が覚めるように新しく教えられることが多かった。そしてカトリックの信仰者たちが小生たちの信仰と同じ神の家族であることを強く思わされた。

 

 だから今回、彼が小生たちを訪ねてくれるのは本当にうれしく待ち遠しかった。苫小牧にいる彼のお姉さんの所に滞在していて、そこからお姉さんに車で送ってもらって来た。彼は翌日、仙台に行くので時間があまりなく、一時間くらいしかないという。いっしょに澄代の手料理を食べながらの交わりである。

 

 彼は6月下旬に日本に来て、7月末にベルギーに戻る予定で、その間カトリックの信者たちが殉教した地を訪ね、その殉教の歴史をまとめ、ベルギーのカトリック教会と日本語プロテスタント教会で報告するそうである。そのために九州島原、金沢、東京、仙台、名古屋等における殉教地を実際に訪ねて、その実態を調査しているとのことであった。約一ヶ月の滞在を殆どカトリック信者の殉教の歴史を調査している様子を、短い時間で休みなく語り続けてくれた。あっという間に1時間の予定が過ぎ2時間になった。彼は昼食をとるのもそこそこにお姉さん宅に戻って行った。

 

 小生たちプロテスタント信者はこの国での迫害の歴史を、プロテスタント宣教以後のことでしか考えない。しかし実際にこの国におけるキリスト教に対する迫害の歴史は、16世紀末から始まっていたのであり、多くの殉教者がいたのである。そのことをプロテスタント教会は今一度、自らのこととして見直さなければならない。遠くベルギーのブリュッセルからの信友の訪れはそのことを覚えさせられたのである。

  

④親切な新聞配達

  

 苫小牧に来て数日しか経っていないので、まだ地理が良く分からない。地名を聞いてもそれが市内のどこに位置するのか皆目分からない。そんなところで、ある人の家を訪ねることになった。住所は一応分かっている。しかし名前は分からない、という変な家探しである。

 

 その人の住所表記の所近くまでは迷うことなく行けた。ところが住所の○丁目△番地×号という表記で「×号」にたどり着けない。ないのである。それでも一番近い号数の所にあったアパートに入って郵便受けの名前を見た。が名前は分からないのである。それでもその人に関係のある姓の人を探すと一人いた。だからと言ってその人が尋ねている人かどうかは全く分からないのである。とにかく藁をもつかむ思いで玄関に行き、インターホンを押した。しかし応答はない。何度か押してもないのであきらめて帰ることにした。

 

アパートを出て少し行くと、若い新聞配達の女性が通りかかった。彼女に声をかけて番地を示してどこにあるか尋ねた。するとすぐに自転車のスタンドを立て、持っているスマホでその番地を探してくれた。やはり「×号」はなかった。彼女は何か他の方法でも調べてくれたが同じであった。さらに配達の途中にも拘らずさっきのアパートのあたりまで来て確認してくれた。小生たちがお礼を言い、配達を続けるように言っても、一緒に探そうとまでしてくれたが、漸く自分の仕事に戻った。その後小生たちは諦めきれずウロウロしていた。そこにまたさっきの彼女が小生たちを見つけて「配達が終わったので一緒に探しましょう」と声をかけてくれた。それでも結局見つからず帰ることにした。彼女はバス停までいっしょに行ってくれると言う。感謝しつつそれを断り、バスに乗り教会に帰ったのである。

 

とにかく、こんなにも親切な新聞配達の人に感激しきりである。若いころの新聞配達の経験からして、途中で誰かの人探しを手伝うなど考えられない。しかし彼女は親切に一緒に探してくれたのである。小生はその夜、その新聞配達の販売店を探し当て、電話をした。そして「お宅の配達員に大変お世話になり感謝を伝えたい。そして彼女にお礼を言っておいて下さい。特別ボーナスでも出して下さい」とお願いしたのである。

 

とにかく、苫小牧に、こんなにも親切な若者がいることに嬉しくなったのである。

 

☆上の写真は千歳についたとき役員の方々が迎えて下さり、頂いた花束です。那珂湊ではとっくにバラの季節は終わりましたが、こちらは涼しいので、各家庭の庭にたくさんの種類のバラがあります。下の写真は糸井教会です。
 
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サビついた霊力

 

 710に糸井福音キリスト教会に赴く。今日(3日)から一週間後である。かなり前から糸井教会のために準備をしているがどうも捗らない。去年8月にウィーンの奉仕から帰国し、急に体調が悪くなり、クアラルンプール教会の奉仕をキャンセルし入院した。しかも想像外の心臓のカテーテル手術も受けた。退院後は体調が戻らず、入院中と同じように寝ては食べ、食べては寝る生活が続いた。この間、説教等の奉仕のことは全く考えず、ひたすらゴロゴロするだけであった。

 

 4月になり、そろそろ糸井のために準備しなければと取り組み始めた。ところが全然捗らない。数カ月、奉仕の責任から離れてひたすら療養していたために剣の鞘が錆ついてしまったらしい。休養をとった後、以前に増して霊的に鋭くなる人もいるだろうが、小生の場合は錆ついている。かつて尺八の先生が「毎日練習しなさい。一分でも吹きなさい。それが出来ないなら触るだけでもしなさい」と言われたことを思い出した。また「一日吹かなければ三日前に戻る」とも言われたのだ。数カ月の空白で錆ついた霊力が元に戻るために何日かかるだろうか。一週間後に迫った出発を前に、ただ主の憐れみに依り頼むばかりである。

 

201973

 

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主にわくわく

 

 710日に北海道の苫小牧にある糸井教会に、約2年間の予定で留守番に赴く。使命は若い牧師を招聘することである。糸井教会には車がないため、那珂湊から車をフェリーで運ばなければならないと考えていた。那珂湊の隣町、大洗から苫小牧にフェリーが運航されているので好都合と考えていた。ところがフェリーの費用が想像以上に高く、車一台と運転手プラス一人で片道4万円以上であることが分かった。小生は種々の病気のため約3カ月に一度は那珂湊に戻らなければならないので、一度往復すれば約10万円もかかる。

 

 どうすればよいかと途方に暮れていた時、夜 寝床で一つの思いが起こされた。それは、糸井教会、緑が丘教会、旭川ローア教会に「車を提供して下さる方を捜して下さい」とお願いすることだった。小生は13年前、中咽頭癌になるまでは床に就けばすぐに眠り、目が醒めれば朝という生活だった。ところがこの病気の後遺症の一つとして夜 数回排尿のため目ざめ、多い時は67回に及ぶ。夜何度も目覚めるのはマイナスばかりではなく、祈ったり説教のことを考えたり、新たな発想が与えられたりする。今回も全く考えもしなかった、道内で主が車を備えて下さるようにという願いが起こされた。

 

 翌朝9時頃、前記の三教会に、電話やFAXでお願いした。710日まででなくても、8月中旬までに与えられれば御の字と考えていた。ところがその翌日の主の日にこのことを聞いた方から「提供できる車があり是非使って欲しい」との連絡を頂き、驚きつつも主を賛美した。

 

 何ということか。主は小生が想像だにできない程の早さで応答して下さった。小生たちは大喜びで申し出を受け、手続きも進んでいる。とにかく、主がなさることは小生たちの想像外である。どんなことをして下さるかワクワクするばかりである。全能であり、恵みの主にはワクワクして待つ楽しみがある。これから糸井教会に赴くが、主がどんなことをして下さるか期待していればいいのだと改めて思わされている。

 

2019629

 

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苫小牧から(2019.11.08)

 

⑪再婚

 10数年前、小生が中咽頭癌になった頃、夫婦して相手が先に召された後、どのように生活するかを話し合った。当時二人とも自分が先に召された場合は、是非再婚して欲しいと願った。小生は「もちろん再婚するよ」と言い、澄代は「しない」という意見だった。

 

 あれから時が過ぎ、小生は70後半になり、澄代も70になろうとしている。澄代はだが 10数年前と変わらず若々しく思うので再婚は現実的であろうが、小生にとっては非現実的である。

 

 夫人を天に送った友人は70前後で非常に元気である。これから一人で生活し、牧会するのか。それとも再婚をするのか。

 

 これまで友人の中で伴侶を天に送ったのはあまりいないが、ただ一人いる。彼らは20才代後半に同じ教会で導かれ家庭を築いた。一男二女が与えられ、一家して主の教会に全力で仕えておられた。ところが兄弟が50歳代に入った頃から、それまでのムリがこたえたのか重い病気をいくつも患い、それを夫人が支えていた。それでも教会と職場で忠実に奉仕し続けた。兄弟は入退院を繰り返していたが60才代半ばで召された。残された夫人は再婚をせず単身で仕事をしながら教会に仕えて今日に至っている。

 

 小生が先に召された場合澄代はどうするだろうか。小生が縛ることは出来ない。小生が願うのは、小生と共に主に仕えた苦労からも解放されて、澄代の賜物が生かされる道を選びとって欲しい。

 

 逆に、もし澄代が先に召された場合、小生はどうすべきか考えていなければいけないのだが、まとまらないのである。

 

 

⑫祈り会

  糸井教会の祈り会は水曜日午前10時から行われる。集まった兄姉が、みことばの光でその日読む所を輪読し、数分間黙想した後、教えられたことを分かち合う。

 

 それに対して、批評をすることなく受け止めるだけである。牧師も出席者の一人として兄姉の教えられたことを聞き、自分も教えられたことを短く語るだけである。

 

 出席者が多い時は10人近くなる。礼拝出席者が同じように10人前後なので、礼拝出席者と祈祷会出席者がほぼ同数である。このような教会は稀ではないかと思う。多くの場合、礼拝出席者の12割が祈祷会出席者ではないだろうか。礼拝出席者10人前後ということがあるにせよ、礼拝出席者がほぼ全員祈祷会に出席すると言うのは驚きである。

 

 糸井教会は約40年前、OMFの宣教師が開拓したため、OMFの祈りの伝統が継承されているのだろうと感じている。祈りの内容も、教会内だけでなく、超教派の働き、送り出している有沢宣教師の働き、OMFの祈りのカレンダーによる課題等を祈るのである。前任の沼田師(現 青森福音キリスト教会牧師)の良き指導もあったのに違いない。

 

 このOMFの良き祈りのスピリットを絶やすことなく、祈りの教会として継続したいと祈るのである。

 

 

信友たちの交わり

 

 89日、北広島に住む米谷和雄・明美夫妻宅で、シカゴから一時帰国した安納義人・恵子夫妻と娘さん。その姪御さんの飯田夫妻が岩見沢から。札幌から小林基人さん。それに小生たちの交わりがあった。数年ぶりの再会もあれば何十年振りの再会もあった。

 

 昨年、シカゴの安納さんが脳の大病を患ったが、主の憐れみによって奇跡的に回復し日本までの長旅にも耐えられるようになったので、小生たち友人は驚きつつ、主を賛美していた。

 

 今回安納夫妻と娘さんを囲んで、信友たちが久しぶりの神の家族の交わりを持つことになったのである。姪御さんの御主人、飯田さんは岩見沢で日本イエス教会で牧会をしている40代後半の働き盛りであった。彼が尺八を演奏してくれて、老いた信友たちの交わりに花を添えてくれた。

 

 安納さん、米谷さん、小林さんはある神学校の同級生で、そのころから祈り合う仲間であった。それから約50年が経っても連絡を取り合い、常に祈り合う信仰の友なのである。今回も同級生の一人が8月になって召されたことが報告された。彼は神学校の同窓生名簿にも記載されてないにも拘らず個人的に消息を知らせ合っていたそうである。それを聞いて、信友の愛のすばらしさに教えられたものである。

 

 安納さん、米谷さん、小林さんというすばらしい信友たちの愛のおこぼれに与っているような者であるが、彼らの様に愛の実践を少しでもするようになりたいものである。

 

 安納さん夫妻は814日にシカゴに戻るそうである。主が彼らをシカゴで守り、豊かに用いられるように祈るばかりである。

 

 

再び苫小牧に

 

 911日(水)に再び苫小牧に来た。茨城空港1730発の予定が雷雨のために大幅に遅れ、1840頃出発した。千歳空港には20時過ぎに到着。糸井教会の鴇田さん夫妻が出迎えてくれた。糸井教会についたのは21時過ぎだった。茨城では暑くて仕方なかったが、千歳に着き建物の外に出ると寒い。長袖のシャツに毛糸のカーデガンを着てちょうど良かった。牧師館に入ってすぐストーブを点けたのである。

 

 最高気温が30数度あった那珂湊から、最高気温20数度の苫小牧に来て、体が驚き、適応するのに時間がかかりそうである。

 

 夜寝る時も、Tシャツ、ショートパンツから、長そでシャツ、長ズボンに衣替えである。

 

 同じ北海道でも苫小牧は南なので、暖かい方である。20184月までいた旭川までは200km位あり、気温は全然違うのである。関東地方と苫小牧との差と、苫小牧と旭川の差が同じではないだろうか。

 

 とにかく苫小牧は小生たちにとっては新しい地であり、初めての冬を迎える。どんな冬なのか興味津々であると同時に不安でもある。

 

 主がこんな老いぼれをもこの地に耐えさせて下さると信じる外はない。「主よ憐れみ給え」である。       

 

 

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苫小牧②

 

⑤北海道地区 教職者会

 

 

 

723()24()北海道地区教職者会が真駒内青少年センターで行われ、小生夫婦も出席した。50人の出席者だったと思う。小生が去年(2018)地区総会に出席した後、4月末に緑が丘教会を去ったので、1年数か月振りに地区の教職者に会った。新しい顔ぶれが多く半数くらいは知らないように思った。

 

 北海道地区は1993年、北栄教会を去り、2016年再び北海道の旭川緑が丘教会で奉仕した。先述のように約2年後の20184月に北海道を離れた。そして一年数ヶ月後の今月、苫小牧の糸井教会に着任したのである。小生の様に北海道を二度も離れたにも拘わらず、こうして3度目の北海道に出戻った者を喜んで受け入れて下さったことに感謝するのみである。

 

 1975年に北海道に来た時は31才で新婚であったが、3度目の今回は75才で、類天疱瘡と下垂体前頭葉機能障害という難病、狭心症の恐れ等ガタガタの体調と呆けとで全く異なる細川である。ステロイドの副作用でムーンフェイスになり、以前の小生とは別人のようで識別できない人が多い。それが哀しくて人に会いたくないのである。それでも今回の教職者会には、全国運営委員も参加していたので懐かしい顔もあり嬉しかった。特に浜田山教会から送り出した徳永さん(門戸教会)、加藤さん(朝日教会)の20数年前と変わらない爽やかな顔を見ると言葉では言い表せないほど嬉しくなった。また連合発足当時から事務の働きをして来た岡田兄や、藤本兄に会えたのも思いがけないプレゼントのようであった。

 

 これから2021年春まで糸井で、若い牧師招聘のために奉仕をする。その間、若い教職者たちに「あの呆け老人」と蔑まれるのだろうが、それに耐えて何とか召しを全うできるよう祈って欲しい。

 

 

 

 

 

⑥ひたちなかと苫小牧

 

 

 

 ひたちなか市と苫小牧市との類似点がいくつかあるように思う。先ず両市とも大企業の城下町である。ひたちなかは「日立」によって発展した街である。苫小牧は「王子製紙」にである。そのためひたちなか市の勝田駅前は「日立」が占領し、苫小牧駅前は「王子製紙」が占領している。また、どちらも「日製病院」と「王子病院」が市民の健康を支える病院として信頼されている。

 

 また、両市とも太平洋に面し、港町である。ひたちなか市は「那珂湊」という元々は漁港であるが、現在は「常磐那珂港」という大型貨物取扱港の機能も持っている。一方、苫小牧港は大型フェリーのターミナル港として本州と北海道を結ぶ重要な役割を果たしている。那珂湊の隣町大洗港と苫小牧を結ぶ大型フェリーはよく知られているところである。人口規模も両市とも15万程度のようである。

 

 一方、両市には違いもある。小生た苫小牧に来て何より違うと思うのは気候である。同じ太平洋に面しているが、那珂湊は晴天が多く、7月下旬ならば普通は30度以上になる。ところが苫小牧は晴れる日は少なく、霧が立ち込め、青空を見ることは殆どない。726日現在でも、最高気温が23度位で、朝夕ストーブを焚くことは稀ではない。

 

 苫小牧からはすぐ近くに白老温泉や支笏湖温泉等があり、支笏湖や洞爺湖等湖が近くにある。ひたちなかの那珂湊からは温泉地や湖は近くにない。

 

 これから苫小牧で、この地を愛し、楽しむことを見出していきたいと願っている。この地の人々を愛するためにも、イエス様がガリラヤ地方を歩き愛されたように、この地の風土を知り、愛するようになりたい。

 

 

 

 

 

⑦聖徒の召天に思う

 

 

 

 数日前、斎藤良子先生(東京基督教短期大学名誉教授)と吉持章先生(東京キリスト教学園名誉理事長)の召天を知った。斎藤良子先生は、小生が信仰に導かれた1963年頃には日本クリスチャンカレッジ(JCC) で教鞭をとるだけでなく、種々の超教派の研修会等で若い信仰者の教育に携わっておられた。そのため、小生も斎藤先生の講義を何度も受けたことを忘れられない。個人的に斎藤先生と親しく言葉を交わしたことはないように思うが、若い時に教えを頂いた方々として忘れられないのである。

 

 吉持章先生とは、先生がTCU はじめ種々の団体で重責を担っておられた頃、ある会議で同席した時、若かった小生は生意気にも先輩たちを恐れず勝手な意見を述べたりした。義持先生は責任ある立場で、そんな小生をたしなめるような態度をされた。それで小生は反発心を抱き、尊敬も出来なかった。

 

 先日、敬愛する先輩牧師から、吉持先生の召天を知らされた。その時、その先輩は吉持先生のことを「晩年になり益々謙遜になられた」と評しておられるのには驚いた。小生はずっと傲慢な働き人だと思っていたが、若い時はいざ知らず、晩年には「謙遜な人」と言われるようになっていたのに驚いたのである。同時に、人を先入観を持って決めつけてはいけないことを教えられた。吉持先生のように「謙遜な人」と評されるような晩年、生涯を送りたいものである。モーセが「謙遜な人」と呼ばれたように、「謙遜な人」と主から呼ばれるのは何とすばらしい賞賛の ことばではないだろうか。「優秀な人」「有能な人」と言われるのではなく「謙遜な人」と呼ばれるようになりたいものである。

 

 斉藤先生と吉持先生の召天に思わされたことである。

 

 

 

 

 

 

 

⑧道央・胆振・日高ブロック教職者の昼食会

 

 

 

 教会連合北海道地区は、北は稚内から、南は苫小牧、静内、襟裳。東は根室、釧路、西は函館、室蘭、ニセコ。と広大な地域に及ぶ。函館から道央の札幌まででも約250300㎞あるだろう。札幌から旭川までが約150㎞。旭川から稚内が約200㎞、また旭川から網走まで約300㎞。札幌から苫小牧が約100㎞。苫小牧から静内が100㎞。静内から襟裳までが約100㎞ある。

 

 このように広大な地域が一つの地区であり、それを六つのブロックに分け、ブロックごとに密度の濃い交わりを持つことが意図されている。

 

 先日、道央・胆振・日高ブロックの教職の交わりがあった。恵庭教会に着任した姜明善牧師と糸井に着任した小生たちの歓迎会をして下さったのだ。姜さんは南関東地区の大磯キリスト教会から恵庭教会に導かれたとのことで、釜山生まれの若さと霊に満ちた働き人である。初めての北海道で種々のカルチャーショックがあるだろうが、主の憐れみによって、この地で長く奉仕して欲しいものだ。小生はとにかく糸井教会に若い働き人を招聘するために召されたので、その使命を果たせるように祈ってもらった。北広島から襟裳まで200㎞以上ある地域に、教会連合加盟教会は5教会で、その他、日本キリスト教会、日本キリスト教団、日本福音同盟教団等、全てのプロテスタント教会は20数教会ではないだろうか。

 

 海外では各国、各都市に一教会くらいなので、教団、教派を超え一つになって礼拝し、主の民たちを守るのを、海外の日本語教会で奉仕して見て来た。それと同じように、この北海道では、教団、教派を超えて、教会がみな協力、一致することが大切なのである。連合の道央・胆振・日高ブロックの交わりだけでなく、この地域の諸教会との交わりの土台となれればと切に願う。

 

 

 

 

 

⑨パークゴルフ場

 

 

 

 糸井教会から25分ほど歩いたところに「糸井の森パークボルフ場」の立て看板があった。パークゴルフは北海道が発祥の地と言われている。そのためか、道内では古くから盛んに行われている。小生が以前札幌の北栄教会で奉仕していた時、北見キリスト教会に招かれたことがある。朝目醒めると朝日が燦々と降り注ぎ教会前の木立は木漏れ日で輝いている。そこはパークゴルフ場になっていたので、夫婦で早速プレ-することにした。それまで12度経験はあったので受付で道具を借り、グリーンの美しさと木漏れ日の美しさの中、二人で堪能した。その後、道内にいる間数回プレーしたと思うが、本州に移ってからは1度あったように記憶している。しかしその時は芝生ではなく、土の上だったように思う。

 

 今回、近くにパークゴルフ場があるのが分かり、夫婦で下見に行った。すると芝生の手入れは行き届き、普通のゴルフ場のフェアウェーやグリーンのようであった。そのパークゴルフ場は36ホールあり、山の裏側にもう18ホールあるとのことであった。地域の多くの人たちが楽しんでいるようで、1400余名の会員がいるとのこと

 

である。驚いたことに、ビニールハウスの中に芝生があり、冬でもそこでプレーできると言う。

 

 小生の体調からして、普通のゴルフは無理であるが、パークゴルフならば、澄代が同伴である限り可能かもしれないと思った。

 

 これから糸井で奉仕する約2年の間に、パークゴルフを試みてみたいと思っている、ただ、類天疱瘡は紫外線を避けなければならないので、晴天ではなく、曇りや霧の時に限られることである。一方芝の緑の美しさに魅了されてはいる。

 

 

 

 

 

 

 

⑩導きの不思議

 

 

 

 糸井教会で約2か月前に結婚した夫婦がいる。それぞれ再婚で70才前後である。男性は岐阜県出身で苫小牧近くの白老に移住して来られた。女性は道内の小樽出身で札幌で出会ったと言う。どのようにして70才近くになって結婚するよう導かれたのか、機会があれば詳しく聞きたいと思う。

 

 一方、同労者の夫人が昨日召されたという知らせが今朝あった。先述の夫婦のように70才前後で結婚に導かれることもあれば、同じ年頃で長年の夫婦生活に終止符を打たれる場合があると言うのが何とも不思議である。

 

 これまで多くの友人夫婦と交わりを与えられて来た。そして友人夫婦によって小生たちはどれだけ教えられ励まされ、慰められたか、一言で言い表せない。小生たちが今日あるのは主の恵みによるのは勿論であるが、友人夫婦によることも掛け値なく言えることである。

 

 しかも、これまで友人夫婦の中で、夫婦のどちらかが召されたということはなかったように思う。主の憐れみによって友人夫婦はこれまで夫婦そろっていたのである。

 

 だから、この夫婦は小生にとって、夫人を天に送った最初の友人である。この友人は年齢的には小生より数年若い。教会連合が設立される以前の単立連盟当時から、共に奉仕した。単立連盟から教会連合設立においてリーダーシップと発想力をもって、今日の教会連合の基礎を築いた一人である。小生は友人たちの中で特別に彼を尊敬して来た。この友人と単立連盟時代から教会連合設立期を共に奉仕出来た事を感謝している。そんな彼の夫人が召されたことを聞き、彼に何と声をかければいいのだろう。たくさんの友人の中で特別の友が最初に夫人を天に送るとは、主は何と言うことをなさることか。

 

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苫小牧①

 

PMFオケ公園を聴く

  

 苫小牧には710日夜到着した。そして14日、最初の主日礼拝奉仕であった。貧しい奉仕にも拘わらず主が憐れみによって用いて下さったと信じてお委ねしている。礼拝は小生夫婦を含めて10人で、聖餐式と、後に愛餐会もあった。 

 

 その翌日715日、思いがけずPMF オーケストラ公演を聴く恵みに与った。

 

 PMFはこの時機、札幌を中心に世界中の一流演奏家が集まる一大イベントである。2年前旭川 緑が丘教会奉仕の期間、PMFオケが旭川に来ないことが残念であった。ところが今回、全く想像外で、苫小牧到着五日後に聴けることになるとは、主の格別の恵みによる外はない。

 

 内容は4曲であった。J・アダムス、チャイコフスキー、プロコフィエフ、R・シュトラウスのものである。小生は演奏について批評することは出来ない。ただ、すばらしい演奏だったと言う外はない。

 

 その演奏を聴きながら考えていたことがある。それは演奏とは何重にも信頼と協力があって、初めて実現するのだろうということである。先ず、作曲者がある。どんなにすばらしい作曲をしていても演奏者がいなければ音になった曲を聴けない。演奏者は指揮者によって解釈された曲に従って演奏する。演奏者自身もその曲に取り組み自らの解釈と指揮者の解釈との折り合いをつけて実際に演奏するのだろう。しかも指揮者や演奏者の解釈が作曲者の意図する通りかどうかが常に問われるに違いない。

 

 色々と思い巡らすと、神ご自身がお書きになった聖書と、それを解釈し説教する牧師、その説教を聴く教会員の関係と似ているように思えて来た。教会が、神のことばを具体的に生きることは、作曲者の曲を具体的に音楽とすることのようである。

 

 どうにかして、すばらしい原曲であるみことばを、作曲者ご自身である神の意図に適った音楽を世に奏でたいと願わされた。PMFオケ講演会の恵みは、主の御言葉を表すようにとの新たな願いの招きでもあった。

 

  

②霧と寒さ

 

  苫小牧に来て一週間が経った。この間、晴れた日は一度もない。那珂湊では真っ青な空と朝は茜色になった東の空から日が上り、真っ赤に染まった夕焼けが見えた。しかし、苫小牧での一週間、太陽をほぼ見ることはなく、何度か雲に覆われた薄陽を見ただけである。朝は毎日霧が立ち込めている。道を歩く時、傘を差せばいいのか迷う。傘を差さないと濡れるようだし、差すまでもないようだ。教会の南側約50mには片側3車線のバイパスが通っているが、多くの車はヘッドライトを点けている。

 

 この霧のためか、陽が差さないからか、気温が低く寒い。最低気温は勿論、最高気温も20度以下ではないだろうか。寒がりの小生などはストーブを点けずにはおられない。以前から苫小牧の夏は気温が低いとは聞いていたが、実際に経験して納得したのである。何でもそうだが知識で知っているのと、体験的に知るのは全く別物だと分かったように思う。

 

 聖書のことばでも、信仰でも、単に知識で知っているのと、それを体験的に知るのでは全然違うことを思わされた。みことばを体験的に知ることが大切だと今更ながら知らされたのだから、毎日みことば体験するよう求めて生きよう。

  

友、遠方より来る

  

 ベルギーのブリュッセルから信仰の友が苫小牧の小生たちを訪ねて来た。彼とは3年前、小生たちがブリュッセル日本語教会で奉仕した時に親しい交わりが与えられた。最初に出会ったのは10年前、ヨーロッパキリスト者の会がスイスで行われた時、湖上を巡る船の甲板のベンチであった。その時は深く語り合うことはなかったが、彼のことを忘れることはなかった。

 

 3年前ブリュッセル教会で奉仕した時、彼も時々出席していたので親しく交わるようになった。彼はカトリックの忠実な信者であった。元々北海道の静内・日高近辺で中学まで育ち、高校は新潟で送り、高卒後、札幌で浪人生活を過ごしたとのことである。その浪人時代に校門でもらった一枚のトラクトを読み、近くのアッセンブリ―教会に通うようになった。大学は新潟大学に進学し、フランス語を専攻した。そのフランス語教師がベルギーからのカトリックの神父で、信仰に導かれたとのことである。大学卒業後ベルギーに留学し、ベルギーの女性と結婚し、今日まで約40年歩んできたのである。

 

 小生たちがブリュッセルにいる時、牧師館に来てカトリックの信仰書を紹介してくれた。それまでカトリックの信仰書を皆無と言っていい程読んだことはなかった。だから彼が貸してくれる本は小生にとって難しかった。と同時に、目が覚めるように新しく教えられることが多かった。そしてカトリックの信仰者たちが小生たちの信仰と同じ神の家族であることを強く思わされた。

 

 だから今回、彼が小生たちを訪ねてくれるのは本当にうれしく待ち遠しかった。苫小牧にいる彼のお姉さんの所に滞在していて、そこからお姉さんに車で送ってもらって来た。彼は翌日、仙台に行くので時間があまりなく、一時間くらいしかないという。いっしょに澄代の手料理を食べながらの交わりである。

 

 彼は6月下旬に日本に来て、7月末にベルギーに戻る予定で、その間カトリックの信者たちが殉教した地を訪ね、その殉教の歴史をまとめ、ベルギーのカトリック教会と日本語プロテスタント教会で報告するそうである。そのために九州島原、金沢、東京、仙台、名古屋等における殉教地を実際に訪ねて、その実態を調査しているとのことであった。約一ヶ月の滞在を殆どカトリック信者の殉教の歴史を調査している様子を、短い時間で休みなく語り続けてくれた。あっという間に1時間の予定が過ぎ2時間になった。彼は昼食をとるのもそこそこにお姉さん宅に戻って行った。

 

 小生たちプロテスタント信者はこの国での迫害の歴史を、プロテスタント宣教以後のことでしか考えない。しかし実際にこの国におけるキリスト教に対する迫害の歴史は、16世紀末から始まっていたのであり、多くの殉教者がいたのである。そのことをプロテスタント教会は今一度、自らのこととして見直さなければならない。遠くベルギーのブリュッセルからの信友の訪れはそのことを覚えさせられたのである。

  

④親切な新聞配達

  

 苫小牧に来て数日しか経っていないので、まだ地理が良く分からない。地名を聞いてもそれが市内のどこに位置するのか皆目分からない。そんなところで、ある人の家を訪ねることになった。住所は一応分かっている。しかし名前は分からない、という変な家探しである。

 

 その人の住所表記の所近くまでは迷うことなく行けた。ところが住所の○丁目△番地×号という表記で「×号」にたどり着けない。ないのである。それでも一番近い号数の所にあったアパートに入って郵便受けの名前を見た。が名前は分からないのである。それでもその人に関係のある姓の人を探すと一人いた。だからと言ってその人が尋ねている人かどうかは全く分からないのである。とにかく藁をもつかむ思いで玄関に行き、インターホンを押した。しかし応答はない。何度か押してもないのであきらめて帰ることにした。

 

アパートを出て少し行くと、若い新聞配達の女性が通りかかった。彼女に声をかけて番地を示してどこにあるか尋ねた。するとすぐに自転車のスタンドを立て、持っているスマホでその番地を探してくれた。やはり「×号」はなかった。彼女は何か他の方法でも調べてくれたが同じであった。さらに配達の途中にも拘らずさっきのアパートのあたりまで来て確認してくれた。小生たちがお礼を言い、配達を続けるように言っても、一緒に探そうとまでしてくれたが、漸く自分の仕事に戻った。その後小生たちは諦めきれずウロウロしていた。そこにまたさっきの彼女が小生たちを見つけて「配達が終わったので一緒に探しましょう」と声をかけてくれた。それでも結局見つからず帰ることにした。彼女はバス停までいっしょに行ってくれると言う。感謝しつつそれを断り、バスに乗り教会に帰ったのである。

 

とにかく、こんなにも親切な新聞配達の人に感激しきりである。若いころの新聞配達の経験からして、途中で誰かの人探しを手伝うなど考えられない。しかし彼女は親切に一緒に探してくれたのである。小生はその夜、その新聞配達の販売店を探し当て、電話をした。そして「お宅の配達員に大変お世話になり感謝を伝えたい。そして彼女にお礼を言っておいて下さい。特別ボーナスでも出して下さい」とお願いしたのである。

 

とにかく、苫小牧に、こんなにも親切な若者がいることに嬉しくなったのである。

 

☆上の写真は千歳についたとき役員の方々が迎えて下さり、頂いた花束です。那珂湊ではとっくにバラの季節は終わりましたが、こちらは涼しいので、各家庭の庭にたくさんの種類のバラがあります。下の写真は糸井教会です。
 
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サビついた霊力

 

 710に糸井福音キリスト教会に赴く。今日(3日)から一週間後である。かなり前から糸井教会のために準備をしているがどうも捗らない。去年8月にウィーンの奉仕から帰国し、急に体調が悪くなり、クアラルンプール教会の奉仕をキャンセルし入院した。しかも想像外の心臓のカテーテル手術も受けた。退院後は体調が戻らず、入院中と同じように寝ては食べ、食べては寝る生活が続いた。この間、説教等の奉仕のことは全く考えず、ひたすらゴロゴロするだけであった。

 

 4月になり、そろそろ糸井のために準備しなければと取り組み始めた。ところが全然捗らない。数カ月、奉仕の責任から離れてひたすら療養していたために剣の鞘が錆ついてしまったらしい。休養をとった後、以前に増して霊的に鋭くなる人もいるだろうが、小生の場合は錆ついている。かつて尺八の先生が「毎日練習しなさい。一分でも吹きなさい。それが出来ないなら触るだけでもしなさい」と言われたことを思い出した。また「一日吹かなければ三日前に戻る」とも言われたのだ。数カ月の空白で錆ついた霊力が元に戻るために何日かかるだろうか。一週間後に迫った出発を前に、ただ主の憐れみに依り頼むばかりである。

 

201973

 

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主にわくわく

 

 710日に北海道の苫小牧にある糸井教会に、約2年間の予定で留守番に赴く。使命は若い牧師を招聘することである。糸井教会には車がないため、那珂湊から車をフェリーで運ばなければならないと考えていた。那珂湊の隣町、大洗から苫小牧にフェリーが運航されているので好都合と考えていた。ところがフェリーの費用が想像以上に高く、車一台と運転手プラス一人で片道4万円以上であることが分かった。小生は種々の病気のため約3カ月に一度は那珂湊に戻らなければならないので、一度往復すれば約10万円もかかる。

 

 どうすればよいかと途方に暮れていた時、夜 寝床で一つの思いが起こされた。それは、糸井教会、緑が丘教会、旭川ローア教会に「車を提供して下さる方を捜して下さい」とお願いすることだった。小生は13年前、中咽頭癌になるまでは床に就けばすぐに眠り、目が醒めれば朝という生活だった。ところがこの病気の後遺症の一つとして夜 数回排尿のため目ざめ、多い時は67回に及ぶ。夜何度も目覚めるのはマイナスばかりではなく、祈ったり説教のことを考えたり、新たな発想が与えられたりする。今回も全く考えもしなかった、道内で主が車を備えて下さるようにという願いが起こされた。

 

 翌朝9時頃、前記の三教会に、電話やFAXでお願いした。710日まででなくても、8月中旬までに与えられれば御の字と考えていた。ところがその翌日の主の日にこのことを聞いた方から「提供できる車があり是非使って欲しい」との連絡を頂き、驚きつつも主を賛美した。

 

 何ということか。主は小生が想像だにできない程の早さで応答して下さった。小生たちは大喜びで申し出を受け、手続きも進んでいる。とにかく、主がなさることは小生たちの想像外である。どんなことをして下さるかワクワクするばかりである。全能であり、恵みの主にはワクワクして待つ楽しみがある。これから糸井教会に赴くが、主がどんなことをして下さるか期待していればいいのだと改めて思わされている。

 

2019629

 

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苫小牧から(2019.11.08)

 

⑪再婚

 10数年前、小生が中咽頭癌になった頃、夫婦して相手が先に召された後、どのように生活するかを話し合った。当時二人とも自分が先に召された場合は、是非再婚して欲しいと願った。小生は「もちろん再婚するよ」と言い、澄代は「しない」という意見だった。

 

 あれから時が過ぎ、小生は70後半になり、澄代も70になろうとしている。澄代はだが 10数年前と変わらず若々しく思うので再婚は現実的であろうが、小生にとっては非現実的である。

 

 夫人を天に送った友人は70前後で非常に元気である。これから一人で生活し、牧会するのか。それとも再婚をするのか。

 

 これまで友人の中で伴侶を天に送ったのはあまりいないが、ただ一人いる。彼らは20才代後半に同じ教会で導かれ家庭を築いた。一男二女が与えられ、一家して主の教会に全力で仕えておられた。ところが兄弟が50歳代に入った頃から、それまでのムリがこたえたのか重い病気をいくつも患い、それを夫人が支えていた。それでも教会と職場で忠実に奉仕し続けた。兄弟は入退院を繰り返していたが60才代半ばで召された。残された夫人は再婚をせず単身で仕事をしながら教会に仕えて今日に至っている。

 

 小生が先に召された場合澄代はどうするだろうか。小生が縛ることは出来ない。小生が願うのは、小生と共に主に仕えた苦労からも解放されて、澄代の賜物が生かされる道を選びとって欲しい。

 

 逆に、もし澄代が先に召された場合、小生はどうすべきか考えていなければいけないのだが、まとまらないのである。

 

 

⑫祈り会

  糸井教会の祈り会は水曜日午前10時から行われる。集まった兄姉が、みことばの光でその日読む所を輪読し、数分間黙想した後、教えられたことを分かち合う。

 

 それに対して、批評をすることなく受け止めるだけである。牧師も出席者の一人として兄姉の教えられたことを聞き、自分も教えられたことを短く語るだけである。

 

 出席者が多い時は10人近くなる。礼拝出席者が同じように10人前後なので、礼拝出席者と祈祷会出席者がほぼ同数である。このような教会は稀ではないかと思う。多くの場合、礼拝出席者の12割が祈祷会出席者ではないだろうか。礼拝出席者10人前後ということがあるにせよ、礼拝出席者がほぼ全員祈祷会に出席すると言うのは驚きである。

 

 糸井教会は約40年前、OMFの宣教師が開拓したため、OMFの祈りの伝統が継承されているのだろうと感じている。祈りの内容も、教会内だけでなく、超教派の働き、送り出している有沢宣教師の働き、OMFの祈りのカレンダーによる課題等を祈るのである。前任の沼田師(現 青森福音キリスト教会牧師)の良き指導もあったのに違いない。

 

 このOMFの良き祈りのスピリットを絶やすことなく、祈りの教会として継続したいと祈るのである。

 

 

信友たちの交わり

 

 89日、北広島に住む米谷和雄・明美夫妻宅で、シカゴから一時帰国した安納義人・恵子夫妻と娘さん。その姪御さんの飯田夫妻が岩見沢から。札幌から小林基人さん。それに小生たちの交わりがあった。数年ぶりの再会もあれば何十年振りの再会もあった。

 

 昨年、シカゴの安納さんが脳の大病を患ったが、主の憐れみによって奇跡的に回復し日本までの長旅にも耐えられるようになったので、小生たち友人は驚きつつ、主を賛美していた。

 

 今回安納夫妻と娘さんを囲んで、信友たちが久しぶりの神の家族の交わりを持つことになったのである。姪御さんの御主人、飯田さんは岩見沢で日本イエス教会で牧会をしている40代後半の働き盛りであった。彼が尺八を演奏してくれて、老いた信友たちの交わりに花を添えてくれた。

 

 安納さん、米谷さん、小林さんはある神学校の同級生で、そのころから祈り合う仲間であった。それから約50年が経っても連絡を取り合い、常に祈り合う信仰の友なのである。今回も同級生の一人が8月になって召されたことが報告された。彼は神学校の同窓生名簿にも記載されてないにも拘らず個人的に消息を知らせ合っていたそうである。それを聞いて、信友の愛のすばらしさに教えられたものである。

 

 安納さん、米谷さん、小林さんというすばらしい信友たちの愛のおこぼれに与っているような者であるが、彼らの様に愛の実践を少しでもするようになりたいものである。

 

 安納さん夫妻は814日にシカゴに戻るそうである。主が彼らをシカゴで守り、豊かに用いられるように祈るばかりである。

 

 

再び苫小牧に

 

 911日(水)に再び苫小牧に来た。茨城空港1730発の予定が雷雨のために大幅に遅れ、1840頃出発した。千歳空港には20時過ぎに到着。糸井教会の鴇田さん夫妻が出迎えてくれた。糸井教会についたのは21時過ぎだった。茨城では暑くて仕方なかったが、千歳に着き建物の外に出ると寒い。長袖のシャツに毛糸のカーデガンを着てちょうど良かった。牧師館に入ってすぐストーブを点けたのである。

 

 最高気温が30数度あった那珂湊から、最高気温20数度の苫小牧に来て、体が驚き、適応するのに時間がかかりそうである。

 

 夜寝る時も、Tシャツ、ショートパンツから、長そでシャツ、長ズボンに衣替えである。

 

 同じ北海道でも苫小牧は南なので、暖かい方である。20184月までいた旭川までは200km位あり、気温は全然違うのである。関東地方と苫小牧との差と、苫小牧と旭川の差が同じではないだろうか。

 

 とにかく苫小牧は小生たちにとっては新しい地であり、初めての冬を迎える。どんな冬なのか興味津々であると同時に不安でもある。

 

 主がこんな老いぼれをもこの地に耐えさせて下さると信じる外はない。「主よ憐れみ給え」である。       

 

 

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苫小牧②

 

⑤北海道地区 教職者会

 

 

 

723()24()北海道地区教職者会が真駒内青少年センターで行われ、小生夫婦も出席した。50人の出席者だったと思う。小生が去年(2018)地区総会に出席した後、4月末に緑が丘教会を去ったので、1年数か月振りに地区の教職者に会った。新しい顔ぶれが多く半数くらいは知らないように思った。

 

 北海道地区は1993年、北栄教会を去り、2016年再び北海道の旭川緑が丘教会で奉仕した。先述のように約2年後の20184月に北海道を離れた。そして一年数ヶ月後の今月、苫小牧の糸井教会に着任したのである。小生の様に北海道を二度も離れたにも拘わらず、こうして3度目の北海道に出戻った者を喜んで受け入れて下さったことに感謝するのみである。

 

 1975年に北海道に来た時は31才で新婚であったが、3度目の今回は75才で、類天疱瘡と下垂体前頭葉機能障害という難病、狭心症の恐れ等ガタガタの体調と呆けとで全く異なる細川である。ステロイドの副作用でムーンフェイスになり、以前の小生とは別人のようで識別できない人が多い。それが哀しくて人に会いたくないのである。それでも今回の教職者会には、全国運営委員も参加していたので懐かしい顔もあり嬉しかった。特に浜田山教会から送り出した徳永さん(門戸教会)、加藤さん(朝日教会)の20数年前と変わらない爽やかな顔を見ると言葉では言い表せないほど嬉しくなった。また連合発足当時から事務の働きをして来た岡田兄や、藤本兄に会えたのも思いがけないプレゼントのようであった。

 

 これから2021年春まで糸井で、若い牧師招聘のために奉仕をする。その間、若い教職者たちに「あの呆け老人」と蔑まれるのだろうが、それに耐えて何とか召しを全うできるよう祈って欲しい。

 

 

 

 

 

⑥ひたちなかと苫小牧

 

 

 

 ひたちなか市と苫小牧市との類似点がいくつかあるように思う。先ず両市とも大企業の城下町である。ひたちなかは「日立」によって発展した街である。苫小牧は「王子製紙」にである。そのためひたちなか市の勝田駅前は「日立」が占領し、苫小牧駅前は「王子製紙」が占領している。また、どちらも「日製病院」と「王子病院」が市民の健康を支える病院として信頼されている。

 

 また、両市とも太平洋に面し、港町である。ひたちなか市は「那珂湊」という元々は漁港であるが、現在は「常磐那珂港」という大型貨物取扱港の機能も持っている。一方、苫小牧港は大型フェリーのターミナル港として本州と北海道を結ぶ重要な役割を果たしている。那珂湊の隣町大洗港と苫小牧を結ぶ大型フェリーはよく知られているところである。人口規模も両市とも15万程度のようである。

 

 一方、両市には違いもある。小生た苫小牧に来て何より違うと思うのは気候である。同じ太平洋に面しているが、那珂湊は晴天が多く、7月下旬ならば普通は30度以上になる。ところが苫小牧は晴れる日は少なく、霧が立ち込め、青空を見ることは殆どない。726日現在でも、最高気温が23度位で、朝夕ストーブを焚くことは稀ではない。

 

 苫小牧からはすぐ近くに白老温泉や支笏湖温泉等があり、支笏湖や洞爺湖等湖が近くにある。ひたちなかの那珂湊からは温泉地や湖は近くにない。

 

 これから苫小牧で、この地を愛し、楽しむことを見出していきたいと願っている。この地の人々を愛するためにも、イエス様がガリラヤ地方を歩き愛されたように、この地の風土を知り、愛するようになりたい。

 

 

 

 

 

⑦聖徒の召天に思う

 

 

 

 数日前、斎藤良子先生(東京基督教短期大学名誉教授)と吉持章先生(東京キリスト教学園名誉理事長)の召天を知った。斎藤良子先生は、小生が信仰に導かれた1963年頃には日本クリスチャンカレッジ(JCC) で教鞭をとるだけでなく、種々の超教派の研修会等で若い信仰者の教育に携わっておられた。そのため、小生も斎藤先生の講義を何度も受けたことを忘れられない。個人的に斎藤先生と親しく言葉を交わしたことはないように思うが、若い時に教えを頂いた方々として忘れられないのである。

 

 吉持章先生とは、先生がTCU はじめ種々の団体で重責を担っておられた頃、ある会議で同席した時、若かった小生は生意気にも先輩たちを恐れず勝手な意見を述べたりした。義持先生は責任ある立場で、そんな小生をたしなめるような態度をされた。それで小生は反発心を抱き、尊敬も出来なかった。

 

 先日、敬愛する先輩牧師から、吉持先生の召天を知らされた。その時、その先輩は吉持先生のことを「晩年になり益々謙遜になられた」と評しておられるのには驚いた。小生はずっと傲慢な働き人だと思っていたが、若い時はいざ知らず、晩年には「謙遜な人」と言われるようになっていたのに驚いたのである。同時に、人を先入観を持って決めつけてはいけないことを教えられた。吉持先生のように「謙遜な人」と評されるような晩年、生涯を送りたいものである。モーセが「謙遜な人」と呼ばれたように、「謙遜な人」と主から呼ばれるのは何とすばらしい賞賛の ことばではないだろうか。「優秀な人」「有能な人」と言われるのではなく「謙遜な人」と呼ばれるようになりたいものである。

 

 斉藤先生と吉持先生の召天に思わされたことである。

 

 

 

 

 

 

 

⑧道央・胆振・日高ブロック教職者の昼食会

 

 

 

 教会連合北海道地区は、北は稚内から、南は苫小牧、静内、襟裳。東は根室、釧路、西は函館、室蘭、ニセコ。と広大な地域に及ぶ。函館から道央の札幌まででも約250300㎞あるだろう。札幌から旭川までが約150㎞。旭川から稚内が約200㎞、また旭川から網走まで約300㎞。札幌から苫小牧が約100㎞。苫小牧から静内が100㎞。静内から襟裳までが約100㎞ある。

 

 このように広大な地域が一つの地区であり、それを六つのブロックに分け、ブロックごとに密度の濃い交わりを持つことが意図されている。

 

 先日、道央・胆振・日高ブロックの教職の交わりがあった。恵庭教会に着任した姜明善牧師と糸井に着任した小生たちの歓迎会をして下さったのだ。姜さんは南関東地区の大磯キリスト教会から恵庭教会に導かれたとのことで、釜山生まれの若さと霊に満ちた働き人である。初めての北海道で種々のカルチャーショックがあるだろうが、主の憐れみによって、この地で長く奉仕して欲しいものだ。小生はとにかく糸井教会に若い働き人を招聘するために召されたので、その使命を果たせるように祈ってもらった。北広島から襟裳まで200㎞以上ある地域に、教会連合加盟教会は5教会で、その他、日本キリスト教会、日本キリスト教団、日本福音同盟教団等、全てのプロテスタント教会は20数教会ではないだろうか。

 

 海外では各国、各都市に一教会くらいなので、教団、教派を超え一つになって礼拝し、主の民たちを守るのを、海外の日本語教会で奉仕して見て来た。それと同じように、この北海道では、教団、教派を超えて、教会がみな協力、一致することが大切なのである。連合の道央・胆振・日高ブロックの交わりだけでなく、この地域の諸教会との交わりの土台となれればと切に願う。

 

 

 

 

 

⑨パークゴルフ場

 

 

 

 糸井教会から25分ほど歩いたところに「糸井の森パークボルフ場」の立て看板があった。パークゴルフは北海道が発祥の地と言われている。そのためか、道内では古くから盛んに行われている。小生が以前札幌の北栄教会で奉仕していた時、北見キリスト教会に招かれたことがある。朝目醒めると朝日が燦々と降り注ぎ教会前の木立は木漏れ日で輝いている。そこはパークゴルフ場になっていたので、夫婦で早速プレ-することにした。それまで12度経験はあったので受付で道具を借り、グリーンの美しさと木漏れ日の美しさの中、二人で堪能した。その後、道内にいる間数回プレーしたと思うが、本州に移ってからは1度あったように記憶している。しかしその時は芝生ではなく、土の上だったように思う。

 

 今回、近くにパークゴルフ場があるのが分かり、夫婦で下見に行った。すると芝生の手入れは行き届き、普通のゴルフ場のフェアウェーやグリーンのようであった。そのパークゴルフ場は36ホールあり、山の裏側にもう18ホールあるとのことであった。地域の多くの人たちが楽しんでいるようで、1400余名の会員がいるとのこと

 

である。驚いたことに、ビニールハウスの中に芝生があり、冬でもそこでプレーできると言う。

 

 小生の体調からして、普通のゴルフは無理であるが、パークゴルフならば、澄代が同伴である限り可能かもしれないと思った。

 

 これから糸井で奉仕する約2年の間に、パークゴルフを試みてみたいと思っている、ただ、類天疱瘡は紫外線を避けなければならないので、晴天ではなく、曇りや霧の時に限られることである。一方芝の緑の美しさに魅了されてはいる。

 

 

 

 

 

 

 

⑩導きの不思議

 

 

 

 糸井教会で約2か月前に結婚した夫婦がいる。それぞれ再婚で70才前後である。男性は岐阜県出身で苫小牧近くの白老に移住して来られた。女性は道内の小樽出身で札幌で出会ったと言う。どのようにして70才近くになって結婚するよう導かれたのか、機会があれば詳しく聞きたいと思う。

 

 一方、同労者の夫人が昨日召されたという知らせが今朝あった。先述の夫婦のように70才前後で結婚に導かれることもあれば、同じ年頃で長年の夫婦生活に終止符を打たれる場合があると言うのが何とも不思議である。

 

 これまで多くの友人夫婦と交わりを与えられて来た。そして友人夫婦によって小生たちはどれだけ教えられ励まされ、慰められたか、一言で言い表せない。小生たちが今日あるのは主の恵みによるのは勿論であるが、友人夫婦によることも掛け値なく言えることである。

 

 しかも、これまで友人夫婦の中で、夫婦のどちらかが召されたということはなかったように思う。主の憐れみによって友人夫婦はこれまで夫婦そろっていたのである。

 

 だから、この夫婦は小生にとって、夫人を天に送った最初の友人である。この友人は年齢的には小生より数年若い。教会連合が設立される以前の単立連盟当時から、共に奉仕した。単立連盟から教会連合設立においてリーダーシップと発想力をもって、今日の教会連合の基礎を築いた一人である。小生は友人たちの中で特別に彼を尊敬して来た。この友人と単立連盟時代から教会連合設立期を共に奉仕出来た事を感謝している。そんな彼の夫人が召されたことを聞き、彼に何と声をかければいいのだろう。たくさんの友人の中で特別の友が最初に夫人を天に送るとは、主は何と言うことをなさることか。

 

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苫小牧①

 

PMFオケ公園を聴く

  

 苫小牧には710日夜到着した。そして14日、最初の主日礼拝奉仕であった。貧しい奉仕にも拘わらず主が憐れみによって用いて下さったと信じてお委ねしている。礼拝は小生夫婦を含めて10人で、聖餐式と、後に愛餐会もあった。 

 

 その翌日715日、思いがけずPMF オーケストラ公演を聴く恵みに与った。

 

 PMFはこの時機、札幌を中心に世界中の一流演奏家が集まる一大イベントである。2年前旭川 緑が丘教会奉仕の期間、PMFオケが旭川に来ないことが残念であった。ところが今回、全く想像外で、苫小牧到着五日後に聴けることになるとは、主の格別の恵みによる外はない。

 

 内容は4曲であった。J・アダムス、チャイコフスキー、プロコフィエフ、R・シュトラウスのものである。小生は演奏について批評することは出来ない。ただ、すばらしい演奏だったと言う外はない。

 

 その演奏を聴きながら考えていたことがある。それは演奏とは何重にも信頼と協力があって、初めて実現するのだろうということである。先ず、作曲者がある。どんなにすばらしい作曲をしていても演奏者がいなければ音になった曲を聴けない。演奏者は指揮者によって解釈された曲に従って演奏する。演奏者自身もその曲に取り組み自らの解釈と指揮者の解釈との折り合いをつけて実際に演奏するのだろう。しかも指揮者や演奏者の解釈が作曲者の意図する通りかどうかが常に問われるに違いない。

 

 色々と思い巡らすと、神ご自身がお書きになった聖書と、それを解釈し説教する牧師、その説教を聴く教会員の関係と似ているように思えて来た。教会が、神のことばを具体的に生きることは、作曲者の曲を具体的に音楽とすることのようである。

 

 どうにかして、すばらしい原曲であるみことばを、作曲者ご自身である神の意図に適った音楽を世に奏でたいと願わされた。PMFオケ講演会の恵みは、主の御言葉を表すようにとの新たな願いの招きでもあった。

 

  

②霧と寒さ

 

  苫小牧に来て一週間が経った。この間、晴れた日は一度もない。那珂湊では真っ青な空と朝は茜色になった東の空から日が上り、真っ赤に染まった夕焼けが見えた。しかし、苫小牧での一週間、太陽をほぼ見ることはなく、何度か雲に覆われた薄陽を見ただけである。朝は毎日霧が立ち込めている。道を歩く時、傘を差せばいいのか迷う。傘を差さないと濡れるようだし、差すまでもないようだ。教会の南側約50mには片側3車線のバイパスが通っているが、多くの車はヘッドライトを点けている。

 

 この霧のためか、陽が差さないからか、気温が低く寒い。最低気温は勿論、最高気温も20度以下ではないだろうか。寒がりの小生などはストーブを点けずにはおられない。以前から苫小牧の夏は気温が低いとは聞いていたが、実際に経験して納得したのである。何でもそうだが知識で知っているのと、体験的に知るのは全く別物だと分かったように思う。

 

 聖書のことばでも、信仰でも、単に知識で知っているのと、それを体験的に知るのでは全然違うことを思わされた。みことばを体験的に知ることが大切だと今更ながら知らされたのだから、毎日みことば体験するよう求めて生きよう。

  

友、遠方より来る

  

 ベルギーのブリュッセルから信仰の友が苫小牧の小生たちを訪ねて来た。彼とは3年前、小生たちがブリュッセル日本語教会で奉仕した時に親しい交わりが与えられた。最初に出会ったのは10年前、ヨーロッパキリスト者の会がスイスで行われた時、湖上を巡る船の甲板のベンチであった。その時は深く語り合うことはなかったが、彼のことを忘れることはなかった。

 

 3年前ブリュッセル教会で奉仕した時、彼も時々出席していたので親しく交わるようになった。彼はカトリックの忠実な信者であった。元々北海道の静内・日高近辺で中学まで育ち、高校は新潟で送り、高卒後、札幌で浪人生活を過ごしたとのことである。その浪人時代に校門でもらった一枚のトラクトを読み、近くのアッセンブリ―教会に通うようになった。大学は新潟大学に進学し、フランス語を専攻した。そのフランス語教師がベルギーからのカトリックの神父で、信仰に導かれたとのことである。大学卒業後ベルギーに留学し、ベルギーの女性と結婚し、今日まで約40年歩んできたのである。

 

 小生たちがブリュッセルにいる時、牧師館に来てカトリックの信仰書を紹介してくれた。それまでカトリックの信仰書を皆無と言っていい程読んだことはなかった。だから彼が貸してくれる本は小生にとって難しかった。と同時に、目が覚めるように新しく教えられることが多かった。そしてカトリックの信仰者たちが小生たちの信仰と同じ神の家族であることを強く思わされた。

 

 だから今回、彼が小生たちを訪ねてくれるのは本当にうれしく待ち遠しかった。苫小牧にいる彼のお姉さんの所に滞在していて、そこからお姉さんに車で送ってもらって来た。彼は翌日、仙台に行くので時間があまりなく、一時間くらいしかないという。いっしょに澄代の手料理を食べながらの交わりである。

 

 彼は6月下旬に日本に来て、7月末にベルギーに戻る予定で、その間カトリックの信者たちが殉教した地を訪ね、その殉教の歴史をまとめ、ベルギーのカトリック教会と日本語プロテスタント教会で報告するそうである。そのために九州島原、金沢、東京、仙台、名古屋等における殉教地を実際に訪ねて、その実態を調査しているとのことであった。約一ヶ月の滞在を殆どカトリック信者の殉教の歴史を調査している様子を、短い時間で休みなく語り続けてくれた。あっという間に1時間の予定が過ぎ2時間になった。彼は昼食をとるのもそこそこにお姉さん宅に戻って行った。

 

 小生たちプロテスタント信者はこの国での迫害の歴史を、プロテスタント宣教以後のことでしか考えない。しかし実際にこの国におけるキリスト教に対する迫害の歴史は、16世紀末から始まっていたのであり、多くの殉教者がいたのである。そのことをプロテスタント教会は今一度、自らのこととして見直さなければならない。遠くベルギーのブリュッセルからの信友の訪れはそのことを覚えさせられたのである。

  

④親切な新聞配達

  

 苫小牧に来て数日しか経っていないので、まだ地理が良く分からない。地名を聞いてもそれが市内のどこに位置するのか皆目分からない。そんなところで、ある人の家を訪ねることになった。住所は一応分かっている。しかし名前は分からない、という変な家探しである。

 

 その人の住所表記の所近くまでは迷うことなく行けた。ところが住所の○丁目△番地×号という表記で「×号」にたどり着けない。ないのである。それでも一番近い号数の所にあったアパートに入って郵便受けの名前を見た。が名前は分からないのである。それでもその人に関係のある姓の人を探すと一人いた。だからと言ってその人が尋ねている人かどうかは全く分からないのである。とにかく藁をもつかむ思いで玄関に行き、インターホンを押した。しかし応答はない。何度か押してもないのであきらめて帰ることにした。

 

アパートを出て少し行くと、若い新聞配達の女性が通りかかった。彼女に声をかけて番地を示してどこにあるか尋ねた。するとすぐに自転車のスタンドを立て、持っているスマホでその番地を探してくれた。やはり「×号」はなかった。彼女は何か他の方法でも調べてくれたが同じであった。さらに配達の途中にも拘らずさっきのアパートのあたりまで来て確認してくれた。小生たちがお礼を言い、配達を続けるように言っても、一緒に探そうとまでしてくれたが、漸く自分の仕事に戻った。その後小生たちは諦めきれずウロウロしていた。そこにまたさっきの彼女が小生たちを見つけて「配達が終わったので一緒に探しましょう」と声をかけてくれた。それでも結局見つからず帰ることにした。彼女はバス停までいっしょに行ってくれると言う。感謝しつつそれを断り、バスに乗り教会に帰ったのである。

 

とにかく、こんなにも親切な新聞配達の人に感激しきりである。若いころの新聞配達の経験からして、途中で誰かの人探しを手伝うなど考えられない。しかし彼女は親切に一緒に探してくれたのである。小生はその夜、その新聞配達の販売店を探し当て、電話をした。そして「お宅の配達員に大変お世話になり感謝を伝えたい。そして彼女にお礼を言っておいて下さい。特別ボーナスでも出して下さい」とお願いしたのである。

 

とにかく、苫小牧に、こんなにも親切な若者がいることに嬉しくなったのである。

 

☆上の写真は千歳についたとき役員の方々が迎えて下さり、頂いた花束です。那珂湊ではとっくにバラの季節は終わりましたが、こちらは涼しいので、各家庭の庭にたくさんの種類のバラがあります。下の写真は糸井教会です。
 
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サビついた霊力

 

 710に糸井福音キリスト教会に赴く。今日(3日)から一週間後である。かなり前から糸井教会のために準備をしているがどうも捗らない。去年8月にウィーンの奉仕から帰国し、急に体調が悪くなり、クアラルンプール教会の奉仕をキャンセルし入院した。しかも想像外の心臓のカテーテル手術も受けた。退院後は体調が戻らず、入院中と同じように寝ては食べ、食べては寝る生活が続いた。この間、説教等の奉仕のことは全く考えず、ひたすらゴロゴロするだけであった。

 

 4月になり、そろそろ糸井のために準備しなければと取り組み始めた。ところが全然捗らない。数カ月、奉仕の責任から離れてひたすら療養していたために剣の鞘が錆ついてしまったらしい。休養をとった後、以前に増して霊的に鋭くなる人もいるだろうが、小生の場合は錆ついている。かつて尺八の先生が「毎日練習しなさい。一分でも吹きなさい。それが出来ないなら触るだけでもしなさい」と言われたことを思い出した。また「一日吹かなければ三日前に戻る」とも言われたのだ。数カ月の空白で錆ついた霊力が元に戻るために何日かかるだろうか。一週間後に迫った出発を前に、ただ主の憐れみに依り頼むばかりである。

 

201973

 

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主にわくわく

 

 710日に北海道の苫小牧にある糸井教会に、約2年間の予定で留守番に赴く。使命は若い牧師を招聘することである。糸井教会には車がないため、那珂湊から車をフェリーで運ばなければならないと考えていた。那珂湊の隣町、大洗から苫小牧にフェリーが運航されているので好都合と考えていた。ところがフェリーの費用が想像以上に高く、車一台と運転手プラス一人で片道4万円以上であることが分かった。小生は種々の病気のため約3カ月に一度は那珂湊に戻らなければならないので、一度往復すれば約10万円もかかる。

 

 どうすればよいかと途方に暮れていた時、夜 寝床で一つの思いが起こされた。それは、糸井教会、緑が丘教会、旭川ローア教会に「車を提供して下さる方を捜して下さい」とお願いすることだった。小生は13年前、中咽頭癌になるまでは床に就けばすぐに眠り、目が醒めれば朝という生活だった。ところがこの病気の後遺症の一つとして夜 数回排尿のため目ざめ、多い時は67回に及ぶ。夜何度も目覚めるのはマイナスばかりではなく、祈ったり説教のことを考えたり、新たな発想が与えられたりする。今回も全く考えもしなかった、道内で主が車を備えて下さるようにという願いが起こされた。

 

 翌朝9時頃、前記の三教会に、電話やFAXでお願いした。710日まででなくても、8月中旬までに与えられれば御の字と考えていた。ところがその翌日の主の日にこのことを聞いた方から「提供できる車があり是非使って欲しい」との連絡を頂き、驚きつつも主を賛美した。

 

 何ということか。主は小生が想像だにできない程の早さで応答して下さった。小生たちは大喜びで申し出を受け、手続きも進んでいる。とにかく、主がなさることは小生たちの想像外である。どんなことをして下さるかワクワクするばかりである。全能であり、恵みの主にはワクワクして待つ楽しみがある。これから糸井教会に赴くが、主がどんなことをして下さるか期待していればいいのだと改めて思わされている。

 

2019629

 

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澄代の留守中

 

 滅多にないことだが、澄代が一人で実家や子どもたちの所に行く時がある。その間、小生は独りで食事をする。食事の準備は殆どすべて澄代がつくって出かけるので、小生は暖める程度のことをすればよい。ただ、この短期間であっても、実際に何を食べるかは小生の自由である。普段の食事は100%澄代が決定して小生に提供してくれる。これは誠に有難いことであり、感謝以外何ものでもない。しかし、他方、何を食べるかという選択の自由がないのが人間として悲しい面がある。やはり、如何にボケ老人になり、澄代に世話になっているとは雖も、食べる自由は人間として基本的に重要であると思う。その意味でわずか45回の食事に何をどれだけ自分の好むように選ぶかということは大きな喜びになる。確かに自分で決めることは面倒ではあるが、その面倒さこそが人間の最も大切なことなのだろう。

 

 澄代が留守の間にこの人間としての食べる自由を楽しもう。一方、イエス様が何を食べるか何を着るかに心を奪われたはならないと言われたことも忘れてはならないのだが。 

 

2019531

 

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