福永有宣教師が来られました

本日の祈祷会に、福永有ウィクリフ宣教師(パプアニュ-ギニア)が来られました。

はパプアニュ-ギニアで、宣教師の子ども達を教育する働きをしてきました。パウアニュ-ギニアは、赤道とオ-ストラリアに挟まれた、ニュ-ギニア島の東半分とその周辺の島々を合わせた独立国です。第二次世界大戦の頃、ニュ-ブリテン島にはラバウルという日本軍の基地があり、今でも地下壕が残っています。また北海岸にも日本軍の飛行場や港がありました。すでに戦争末期にあった日本軍は首都ポ-トモレスビ-を陥落できず、餓死者が大量に出ました。このようにかつて日本人はこの国に武器を携え侵入したわけですが、今私たちは「いのちの御言葉」を携えて奉仕させていただいています。しかも、敵であったアメリカ人や、オ-ストラリア人と一緒になって、御言葉を宣べ伝える光栄な働きをさせていただいています。

さて、パプアニュ-ギニアの人口は約500万人、北海道の人口と同じくらいです。そして800種類の言語があります。私たちの団体は世界中の、特に少数部族の中に入って、聖書を彼らの言葉に翻訳するという働きをしており、パプアニュ-ギニアには1956年に入りました。ウカルンパ(標高1500m)にセンタ-があり、20数カ国から来た4,500名の宣教師と約300名の子ども達が暮らしています。その子ども達のために、私たち夫婦は英語をベ-スに教育をしてきました(ウカルンパインタ-ナショナルスク-ル)。翻訳にあたる宣教師は各村で2,3ヶ月過ごしてはこのセンタ-に戻り、鋭気を養って再び村に行くという生活を15年から20年続けます。今までに200言語の翻訳が完成し、現在進行中の翻訳は200言語です。ところで、最も長く働ける宣教師は誰でしょうか。それは聖書です。彼らの言葉に訳された、彼らが読める聖書、それが最も息長く、力ある宣教師となり得るわけです。マタイ24:35にあるように、私たちはその御言葉を届ける働きをしているのです。


 ところで、今日は「Sleeping Coconuts」という本を紹介したいと思います。著者はナイストロンというアメリカ人の翻訳宣教師で、1987年にパプアニュ-ギニアに来て、アロップ(Arop)という言葉の翻訳を始めました。パプアニュ-ギニアでは一つの言語について、それを話す人は多くても1万人しかいません。アロップ語を話す人は2400人います。1998年7月18日、ここを大きな地震と津波が襲い、ココナツの木が横倒しになり(本のタイトル)、800人の命が一夜にして失われました。ナイストロン一家はちょうどウカルンパセンタ-に戻っていた時期だったので被害に遭わなかったのですが、4人の翻訳協力者の一人だったベン・シリオンが津波で亡くなりました。「あの出来事を通して神様は、私たちの聖書翻訳のあり方そのものも、また根底から変えられた。今、あれから13年経ち、ようやくあの恐ろしい出来事から始まって今に至るまでのことを、書いてみることができるようになった。」こうして彼は、2年前からこの本を書き始めました。ベンは亡くなる前、マタイの福音書5章4節「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」を、「悲しむ人々は喜ぶことができる。なぜなら、神様ご自身が彼らの心の内を良きものにしてくださるから」と訳していました。ナイストロンは、「私はそれを読んで思った。アロップの他の人たちは皆、この言葉を聞かなければならない。今ここで翻訳を止めることはできない」と確信しました。その後、生き残ったアロップの人々は居住地を内陸部に移し、海外から送られてきた津波災害復興支援基金を水の設備の復旧と、読み書き教室の建設に使うことにしました。津波はアロップの人々に、読み書き学習の意欲を一新させました。人々は津波で経験したことを、自分の言葉を使って書きたかったのです。ところで、津波が発生する前から、アロップとは異なる言語グル-プから聖書翻訳の依頼がありました。しかし、他の翻訳者が来るまで待ってもらうしかありませんでした。一つの言語について新約聖書が完成するのに少なくとも15年かかるからです。しかし津波の後、アロップだけではなく他の地域にも御言葉への飢え渇きがありました。異なる言語の翻訳を同時にする、それは今までの団体の常識では全く不可能でした。それに夫のジョンには慢性疲労症候群という持病がありました。しかしナイストロン夫婦は真剣に祈り、具体的な導きを求めました。更に、私たちの団体は99年「西暦2025年までに、聖書翻訳を必要としている世界のすべての言語において翻訳プロジェクトに着手する」(Vision2025)というビジョンを掲げました。ナイストロンが生き残った翻訳協力者と祈りの時を持ち、今後の翻訳の進め方について話し合った時、協力者の一人、ピ-タ-牧師は「この地域に住んでいる僕たちはみんな話す言葉は異なっていても、あの津波で目が開かれたんだ。今こそ彼らも僕たち聖書翻訳の仲間に迎える時だ」と答え、もう一人も頷いて「そうだ、今こそそうする時だ。その事の方が、自分たちのアロップ語の聖書を完成することよりもっと大事なことだ。ジョン、あんたの病気の事は心配しなくてもいいんだ。あんたが僕たちに教えてくれたことを、今度は僕たちが彼らに教えて、助けていく番なんだ」と言いました。それを聞いたジョンは、溢れる涙を抑えることができませんでした。「自分の病気がかえって、彼ら自身が主体的に翻訳の担い手になることを促し、リ-ダ-シップを引き出すことになった。….自分は今までなぜこんな病気になってしまったのだと思うだけだった。でもこの時ばかりは、自分の病気を神様に感謝することができた。自分の病気が治ったからではない。それを神様がこんなにもすばらしい方法で用いて下さったからだ」、彼はこのように記しています。こうして彼らは三つの言語の翻訳に着手する決断をしました。更にその話を聞いた他の言語の村からの翻訳依頼が加わり、最終的には11言語のグル-プが一緒に翻訳するというプロジェクトができました。それと共に最先端の知識、技術が導入され、働き人も加えられていきました。2001年9月にはヨナ書の翻訳研修会が開かれ、現在なお翻訳が進行中です。

最後の写真は、ピ-タ-牧師の夫人です。彼女はワラプという言語を話す部族から嫁いできました。結婚して以来、ご主人のコミュニティでアロップ語を使っていましたが、彼女の心に本当に語りかけてくれる言葉は母語でした。しかしこの言語も11言語の中に迎え入れられ、2002年2月にルツ記の翻訳が終わった時、彼女はできたての原稿をジョンから見せてもらいました。それがこの写真です。「母も幼子も二人とも今、豊かな乳を飲んでいる。…もし自分たちの翻訳プロジェクトが彼女の母語も含む多言語プロジェクトになっていなかったら、こんな光景を見ることはなかっただろう」。この写真を撮ったのはジョン自身ですが「この写真を撮るときは本当に辛かった。涙で焦点がなかなか合わなかった」とも述べています。このように聖書翻訳の働きが続けられているのです。