第109回 童謡・唱歌・賛美歌を歌う会

「白い道」、「冬の夜」、「ペチカ」、「北風小僧の寒太郎」「御名をほめたたえる歌声より」(教会福音讃美歌245番)、「ふるさと」を歌いました。参加者は8名でした。

 

 

 

 

「与えられた人生を楽しむ」

 

ドラえもんの道具「チューイングピザ」

ドラえもんの道具に「チューイングピザ」というものがある。これは、一粒食べるだけでお腹一杯になり、口一杯にピザの味が広がっていくという道具です。私は漫画か、アニメか定かではないのですが、この道具をドラえもんが使っているのを見た記憶があります。ドラえもんとのび太が次の目的地に急いで向かうシーンだったと思います。ドラえもんが腹ペコののび太にこの道具を渡して、すぐにお腹一杯にさせて、次の場所に向かわせるのです。「一粒食べるだけでお腹一杯。」これは急いで生きている人には便利かもしれません。しかし美味しい食事を味わったり、料理の見た目を楽しんだりする余裕を奪ってしまうような道具だなと思いました。

 

星野富弘さんの詩:神様からのプレゼント

「リンゴには赤い皮 ミカンは黄色 あれは美しい包装紙につつまれた神様からのプレゼント」

星野富弘さんの短い詩を味わってみましょう。星野さんには果物の皮とその色が、美しい包装紙に見えたようです。それらの食べ物は神様のプレゼントだといいます。おそらく神様は、私達を生かすためだけではなく、喜ばせるために食べ物を与えてくれたのだろうなあと思います。食べ物が様々な色、におい、形を持つのは、人が人生を喜ぶことができるためです。もし人間を生かすだけの食べ物なら、チューイングピザのように、全部同じ形、全部同じ味にしても良かったはずです。神様は「食」を通して、私達が人生を楽しむことを望んでおられると思います。

 

ジャン・カルヴァン

今から500年前、ジャン・カルヴァンという聖書の専門家がいました。彼は気難しいで有名ですが、そんな彼でさえこんな言葉を残しています。「植物が何のために造られたのかを考えると、単に必要のためばかりでなく、喜び楽しませようとして備えられたことが見出される。同じく、衣服も必要という他に優美と品位を目的とする。草木もその実も多種多様の実用とされる他に、見た目に美しく快適な香りを放つ。要するに、必須の用以外にもわれわれに勧められているではないか。」

 確かに、食べ物から栄養を摂取することは人間にとって、「必須の用」です。しかし神様は食べ物の見た目、美しさに沢山のバリエーションをもたせています。それは私達が一度、立ち止まり、それら楽しむことを望んでおられるのです。

 この世界は、「もっと効率的でなければならない、そうでなければ役立たずだと思われる。異常者になってはいけない。平均より上にならなければならない」という思いで回っています。しかし神様は日曜日の礼拝で心を静めること、食事を楽しむこと、服で自己表現することを、そういうこの世界で余分だと思われていることを楽しむことを私達に求めておられます。そしてそれを楽しむことで、私達はそれを与えてくださっている神様に心から感謝するのです。食べることの目的は、お腹を満たすことだけではない。服を着る目的は、暖かくなるだけではない。神様が与えてくださった人生の喜びを私達は味わいきっているのか?今日は「人生を楽しみなさい」と言われている神様のことをお話しました。

 最後に御言葉をお話します。詩篇31:7

あなたの恵みを 私は楽しみ喜びます。 あなたは私の悩みをご覧になり 私のたましいの苦しみをご存じです。

 

 この言葉を神様に言った本人はとっても苦しんでいます。しかしその苦しみだけを見るのではなく、神様のプレゼントである。食べ物の恵みや他の恵みに心を向けて、感謝してみましょう。

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第108回童謡・唱歌・讃美歌を歌う会

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第107回 童謡・唱歌・讃美歌を歌う会

「まつぼっくり」、「たきび」、「星の界」、」「栄冠は君に輝く」、「感謝しますかみさまに」、「ふるさと」を歌いました。参加者は11名でした。

 

イエス様は、私たちを罪から救うために天から地に下りてこられました。これをお祝いするのがクリスマスです。飼葉桶で寝ているイエス様の絵画を、皆さんも一度はご覧になったことがあると思います。イエス様は一度、人としての生涯を経験されました。ですから、イエス様は神様であり、人でもあります。

 イスラエルにマルタとマリヤという姉妹がいました。二人は弟を亡くし、とても悲しんでいました。そんな二人のもとにイエス様が来られ、それぞれ性格を考慮したことばをかけられました。マルタには「わたしはよみがえりです。いのちです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ112526)と、力強い神様のことばで励ましました。そしてマリヤには、何も語らず涙を流されました。イエス様は人として生まれたから、人としての苦しみや死に直面する時の悲しみや苦しみ、不安がわかって涙を流すことができたのです。

 

 天の父なる神様、悲しんでいる人、苦しんでいる人に必要な、適切なことばをかけて下さり、また一緒にいて下さるイエス様のことを今日学びました。どうぞ、ここにいる一人一人に必要な助けを与えて下さいますようお願いいたします。(2020.11.17 武田遣嗣牧師)

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第106回 童謡・唱歌・讃美歌を歌う会

「紅葉」、「こうま」、「里の秋」、「耳をすませてごらん」、「キリストにはかえられません(福音讃美歌465番)」、「ふるさと」を歌いました。参加者は7名でした。

 

 坂本竜馬は薩長同盟を仲介し、大政奉還に尽力した人物ですが、33歳という若さで亡くなってしまいました。そして、当時27歳の今井信郎が竜馬を暗殺したことを自白しました。竜馬には子どもがいなかったので、竜馬の甥、坂本直が坂本家の家督を継ぎました。直は竜馬のような功績を残してはいません。ただ、驚くべきことをしました。それは、竜馬の法要に今井信郎を招いたということです。直は、どうして敵ともいえる人物を法要に招いたのでしょうか。実は、直はクリスチャンでした。彼の信じていた神様がゆるしの神様であることが関係していると思います。イエス様は十字架に釘ではりつけにされている時、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからないのです」と祈られました。イエス様は、彼らの罪のために死んだのです。坂本直は、このイエス様の十字架によって自分の罪がゆるされていることを信じていました。自分もゆるされているのだから、私もゆるさなくてはいけない、そういう思いで今井信郎を法要に招いたのではないでしょうか。

 

 私たちには人をゆるせない時があるものです。しかし、私たちがキリストにゆるされていることを信じるなら、私たちも他の人をゆるすことができるかもしれません。坂本直のように人を恨まないで喜んで生きる、その心を私たちは神様からいただくことができます。ただ拝むだけではなく、私たちにゆるす力、生きる力を与えて下さる神様を見上げて歩んでいきたいと思います。(2020.10.20 武田遣嗣牧師)

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第105回童謡・唱歌・讃美歌を歌う会

「赤とんぼ」、「七つの子」、「故郷の空」、「四季の歌」、「罪とがをゆるされ(聖歌232番)」、「ふるさと」を歌いました。参加者は8名でした。

 

関西(兵庫県)在住時、私は茨城に一度も行ったことがありませんでした。でも、なぜか小学生の頃、水戸黄門が大好きでした。旅行先に水戸黄門の印籠があると母に買ってもらい、よく水戸黄門ごっこをして楽しんでいました。しかしこのブームは小学生まででした。ある一つの疑問が湧いたからです。印籠をもっと早く出したら、早く事件が解決するのにと思ったのです。この疑問を大人にぶつけると、そんなことをしたらドラマが早く終わってしまうでしょ、と言われたことを覚えています。現在は、ぎりぎりまで印籠を出さない光圀が素敵だなと思うようになりました。もし光圀が印籠を出したまま街を歩くなら、権力を持った偉そうな人でしかありません。しかし印籠をぎりぎりまで出さないで、できるだけ庶民と同じ感覚で旅をしたい、そんな光圀の謙遜な姿が素晴らしいと思うようになったのです。

聖書も、謙遜に生きる大切さを記しています。

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ1814

自分を高くするとは偉そうにする、他の人を下に見ることで、そういう人は神様に低くされ、逆に自分を低くする人、人を差別しないで等しく愛する人は、神様に高くされると言うのです。水戸光圀も謙遜かもしれませんが、クリスチャンが最も謙遜だと考えているのはイエス様です。例えば、イエス様は弟子たちの足を洗いました。人の足を洗うことは、当時のイスラエルでは奴隷の仕事でしたが、イエス様は嫌がらずに弟子たちの前に座り、彼らの足を洗ったのです。イエス様の謙遜が最も表れているのが十字架です。イエス様は十字架にかかって死んでしまいました。それは周りの、イエス様を憎んでいる人たちが嘘をでっちあげたからです。しかしイエス様は彼らに言い返すことなく、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。イエス様は自分で高くなろうとしない、いつも謙遜な方でした。そんなイエス様を、父なる神様は復活させて天国に引き上げられました。私たちはこのイエス様の謙遜に倣いたいと思います。高飛車な態度を取られたり、偉そうにされると、謙遜に生きるのをやめたくなります。しかしそんな時、この十字架にかかったイエス様の姿を思い返しましょう。

 

天の父なる神様、御名を崇め、賛美いたします。イエス様はとても謙遜なお方でした。その謙遜なイエス・キリストを、神様は高く引き上げられました。私たちの人生でも同じことが起こります。私たちが高飛車になれば低くされ、低く謙遜に生きるなら高くされます。主よ、どうぞ私たちに謙遜を教えて下さい。(2020915日 武田遣嗣牧師)

 

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