大胆さを求める祈り 使徒の働き4章23~35節

4:23釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。 4:24これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。 4:25あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。

『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、
もろもろの民はむなしいことを計るのか。
4:26地の王たちは立ち上がり、
指導者たちは、主とキリストに反抗して、
一つに組んだ。』

4:27事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、 4:28あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。 4:29主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。 4:30御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」 4:31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

4:32信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。 4:33使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。 4:34彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、 4:35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。(使徒4:23~35)

 

 私たちが福音を伝えるために必要なものは、ペテロたちのような大胆さではないでしょうか。ペテロたちは釈放され、無事仲間たちの所に帰ることができました。しかしまだ国の最高権力者に目をつけられています。このような状況下で、彼らは祈りました(2430)。彼らと同じ状況に立ったら、「神様助けて下さい、この宣教の働きは私には無理です」と祈るでしょう。しかしペテロたちは、更に大胆に語ることができるようにと祈りました。多分、彼らにも権力者への恐れがあったでしょう。そうでなければ、大胆に語ることができるように、と祈る必要はないからです。しかしこの祈りによって聖霊が働き、ペテロたちは更に大胆に福音を語りました。福音宣教が次の段階に進むために、この祈りは不可欠だったのです。これは私たちにも言えることです。

 

 では、祈りの内容を見ていきましょう。まず使徒たちは、これから祈る神様がこの世の権力者より偉大な方であることを明確にしました。「主よ」(24)という呼びかけは、普通「キュリオス」というギリシャ語が使われるのですが、ここでは「デスポテース」という言葉が使われ、神様が世界を統べ治めている主であることを表しています。使徒たちは、この世を統べ治めている神様に、特別な思いで祈り始めました。目に見える世界は、人間が治めているように見えます。しかし実は、誰よりも偉大な神様が治めていることを、この「主よ」という呼びかけで、また、あなたはすべてをつくられた方ですと言うことによって確認しているのです。私たちは辛いことがあるとつい感情的になって、自分が恐れている人とか、起こらないでほしい未来を見つめすぎるあまり、神様をないがしろにした祈りをしてしまうことがないでしょうか。しかし使徒たちはまず主を見上げ、自分の願いは最後でした。私たちは祈る時、自分が祈っている方がどんな方なのかに注目して、祈り始めたいと思います。

 

 次に使徒たちは、祈りの中で御言葉(詩2)を引用しています。この詩篇は「王の詩篇」と呼ばれ、絶対的な力を持つ王(神様)に逆らう者たちの虚しさを描いていますが、使徒たちはその具体例としてヘロデやポンテオ・ピラトを挙げています(27)。彼らはイエス様を十字架につけました。しかしそれは予め、神様が定めておられたことでした(28)。この世の権力者は、神様の立てた計画の中でしか、事をなせないのです。裁判でペテロたちを脅していた権力者も、例外ではありません。使徒たちは、この祈りの中で詩篇2篇を引用して、権力者に勝る神様とそのご計画に目を留めたのでした。さらに詩篇2篇は、王に従う者たちの恵みを語っています。祈りの中には詩篇2篇の前半しか引用されていませんが、恐らく彼らは、2篇の終わりの言葉(詩212)も意識していたと思います。彼らは神様を宣べ伝えることで恐ろしい目に遭います。しかし、神様のために生きている者に与えられる幸い、神様のそばにいるという平安を、もうすでに味わっているのです。

 

 ペテロたちは最後に願いを述べました(29)。結果、彼らは神様の務めを全うできるだけの大胆さを与えられました。私たちが神の愛を伝えることは、神様の国を求めることではないでしょうか(マタイ633)。神様は私たちにも、伝道に必要な知恵と大胆さを与えて下さいます。私たちにとって最も恐ろしいことは、求めないことではないでしょうか。自分や神様に限界を定めたり、求めなければ傷つかないですむと考えてしまいます。しかし私たちは、神様の愛を伝えるのに足りない者であることをよく把握し、ペテロたちのように祈り求めていきたいと思います。その祈りによって、教会の宣教は次の段階に進んでいきます。

 

 天と地と海、すべてをおつくりになった、天の父なる神様、あなたの偉大な御業をほめたたえます。そして溢れるばかりの愛を感謝します。この愛を宣べ伝える時に必要なものすべてを、あなたが与えて下さい。聖書には「求めなさい。そうすれば与えられます」と書かれています。自分の無力さをただ嘆くのではなく、幼子のように素直に謙遜になって、宣教のために自分が足りない部分を祈り求めていくことができるようにして下さい。(201878日礼拝 武田遣嗣牧師)