バルナバの捧げ物 使徒の働き4章32~37節

4:32信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。 4:33使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。 4:34彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、 4:35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

4:36キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、 4:37畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。 (使徒4:32~37)

 

 今日の箇所でバルナバは、捧げる人の好い模範として書かれています。一方、5章に登場するアナニヤとサッピラは、全財産を捧げると約束しながら嘘をついて、一部を懐に入れました。彼らは捧げる人の反面教師です。つまり5章を跨いで、良い模範であるバルナバと、反面教師であるアナニヤとサッピラが対照的に描かれているのです。

 

 では、バルナバの捧げ物にはどんな特徴があったのでしょうか。第一に、それは自発的な捧げ物でした(3637)。キプロスは地中海に浮かぶ島で、彼はイスラエル人ではありません。畑はおそらく彼がイスラエルに来て、一から築き上げた財産だと思います。長年の努力が実を結んだものほど尊く、自分の財産だという意識が強いのではないでしょうか。しかし彼はそれを自発的に捧げました。「すべての持ち物を共有していた」(32)とあるので、教会員は自分の財産を持ってはいけないようにも読めますが、そうではなく、バルナバたちは自発的に財産を捧げていたようです。私たちが所持しているもので永遠に残るのは、信仰と希望と愛だけだと聖書に書かれています(Ⅰコリ1313)。しかし私たちは所持しているものに依存し、それを信頼してしまうことがあります。バルナバは所持しているものではなく、神様に信頼しました。私には、バルナバと2レプタを捧げたやもめ(ルカ21)の姿が重なりました。やもめは、神様に生活費(いのち、人生)のすべてを捧げました。私たちも彼らのように、「私の人生をあなたにお委ねします」と自発的に捧げ、神様に信頼して生きたいと思います。

 

 第二に、それは愛のある捧げ物でした。彼は、サウロ(パウロ)を教会に招きました(92628)。かつて迫害者であったサウロに対し、教会は疑心暗鬼になりましたが、バルナバは熱心に説得し、その結果、サウロは教会を自由に出入りできるようになりました。バルナバの奉仕は愛が基準でした。もしサウロが回心を装って、教会に忍び込もうとしているだけなら、教会員は皆、牢屋に入れられてしまうかもしれません。しかしバルナバは、サウロを愛をもって教会に迎え入れました。バルナバという名前(慰めの子、励ましの子)は、彼の素晴らしい内面性を表しています。私たちもバルナバのように、愛のこもった奉仕をしていきたいと思います。

 

 第三に、それは個性の光る捧げ物でした。153639には、パウロとバルナバの宣教旅行にマルコを連れて行くか否かで、激しい議論になったことが描かれています。マルコは若く未熟だったので、前に参加した宣教旅行を途中で投げ出し、エルサレムに帰ってしまいました。そのため、パウロはマルコを宣教旅行に連れていくことに反対でした。パウロは命をかけて福音を宣べ伝えていたので、マルコに足を引っ張られたくなかったのだと思います。しかしバルナバは、マルコを連れていきたいと考えていました。慰めの子、バルナバは、もう一度マルコにチャンスを与えたかったのでしょう。バルナバには多分、人の本質を見抜く賜物があったのだと思います。バルナバがサウロを教会に受け入れた時、彼はサウロの過去の過ちではなく、神様に変えられた心を見ることができました。おそらくバルナバは、マルコにおいても彼の伝道者としての資質を見抜き、宣教旅行へ参加させたかったのだと思います。そしてこの対立の結果、パウロとバルナバは分かれて宣教旅行に出かけました。しかしこの対立は、二つのすばらしい結果をもたらしました。第一は、二つの宣教旅行が実施されたことにより、多くの人に福音が届けられたということです。第二に、マルコがすばらしい伝道者になったということです(Ⅱテモテ411)。Ⅱテモテは、パウロの晩年に書かれた書だと言われています。その頃にはマルコは立派に成長し、パウロの役に立つ者になっていたことがわかります。更に彼は「マルコの福音書」を書きました。このように、バルナバの優しさとパウロの熱心に挟まれる形で、マルコは伝道者になることができました。そして彼らの個性の違いによって、より多くの地域に福音が広まりました。この個所から、教会は教会員一人一人の個性が生かされる時、神様の栄光が現れるということがわかると思います。教会は互いの個性を否定しあってはいけません。神様は、誰もが羨む個性だけを用いるのではありません。神様は、私たちの過去の経験、今持っている感情など、すべてを用いて神様の栄光を現してほしいと思っておられます。

 

 天の父なる神様、私たちには一人一人、あなたから与えられた使命があります。この使命を、私たちがもっている個性、賜物、感情を用いて果たすことができるようにして下さい。私たちの奉仕は自発的か、愛があるか、個性を用いているか、今一度吟味して、神様に最高の捧げ物をすることができるようにして下さい。(2018722日礼拝 武田遣嗣牧師)