5:26そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来た。しかし、手荒なことはしなかった。人々に石で打ち殺されるのを恐れたからである。 5:27彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、 5:28言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」 5:29ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。 5:30私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。 5:31そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。 5:32私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
迫害と言うと、21世紀の日本に生きる私たちには無関係に思えるかもしれません。しかし世界的な視野で見ると、20~21世紀は、クリスチャンが最も迫害された時代であり、2017年の統計では、12人のクリスチャンのうち1人は迫害を受けていたそうです。今日は、迫害下でどう生きるかについて、聖書から学びたいと思います。
裁判にかけられた使徒たちは、権力者たちに二つのことを問われました。第一は、なぜ御言葉を語るのか、ということです。使徒たちは、権力者たちにイエスの名で教えてはならないと厳しく命じられたのに、御言葉を語り続けたからです(28)。使徒たちの答は明確で(29)、人を恐れず神様に従い続けました。迫害の中にある時、私たちは御言葉を語る、聞く、心に留めることを止めてはいけません。使徒の働きの時代、人々は教会を尊敬していました。それは彼らが強い迫害に対し、一貫して同じ宮に留って御言葉を聞き、語り、礼拝を守っていたからです。御言葉を聞いて礼拝をささげる、これはクリスチャンがこの世に生きている限り、神様から与えられた使命であり、聖書に書かれた使命からぶれないことが、迫害下で大切なことなのです。
第二は、なぜ十字架の責任を権力者(大祭司、サドカイ派)が負わなければならないのか、ということです。彼らは、イエス様を十字架上で殺した中心人物です。しかし、イエスは自分を神としたのだから、十字架刑に処されて当然だと考えていました。そこで使徒たちは、彼らが(イエス様を)十字架にかけて殺した、イエス様は救い主であり、悔い改めと罪のゆるしを与える方だと答えました(29~32)。実は、これは使徒たちが繰り返し語ってきたメッセージです。このようなメッセージに対し、聴衆は二つの反応を示します。一つは心を刺され、御言葉を受け入れますが(2:37~41)、もう一つは権力者たちのように罪を認めず語る者を迫害するのです。私たちは御言葉を語れば語るほど、受け入れる人も迫害する人も出てくることを心に留めましょう。しかし聖書は、迫害の中にいるクリスチャンの幸い、喜びについて語っています(Ⅰペテ4:12~14)。
さて、使徒たちは思わぬ形で危機を脱しました(34~40)。律法の教師(「新改訳2017」)ガマリエルは歴史書に名が残るほど有名で、自ら学校を設立、生徒に律法を教えていたそうです。パウロも彼の生徒でした(22:3)。ガマリエルは権力者たちのように力はありませんが、民衆から支持されていました。ですから、権力者たちは彼の意見を無視できなかったのです。ガマリエルは、神様からでたものは滅ぼせない、そうでないものは勝手に滅んでいくと主張し、これを立証するために、チゥダとユダを例にあげました。二人とも権力に対し抵抗した人物で、特にユダは納税に反対してローマ軍に殺されましたが、彼の思いを引き継いだ者たちが熱心党を結成したそうです。おもしろいのは、神様はパリサイ人ガマリエルを通して使徒たちを助け出したということです。神様の計画はいつもドラマチックだと思わされます。
ただし使徒たちは、ただでは解放されませんでした(40~41)。彼らは、ここで初めて肉体的な苦痛を味わいます。「むちで打つ」とは、手足を縛られ40回ほど打たれるのだそうです。けれども彼らは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びました。冒頭でお話しした迫害を受けているキリスト者は、この使徒たちと同じ喜びを味わっているかもしれません。
クリスチャンには迫害があります。これは想定しておかなければなりません。もし私たちにそのような時代が来た時、こんなはずではなかった、と言うのはやめましょう。聖書にはっきりと書かれているからです。しかし迫害はただ苦しいだけではなく、積極的な意味があります。それは十字架上の苦しみの一部を理解するものとなります。また御霊がその人のそばにいます。ですから使徒たちは迫害の中でも、喜んでいたのだと思います。
「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。ただ、いましばらくの間は、やむをえず、さまざまの試練のために、悩まされていますが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテ1:6~10)
天の父なる神様、御言葉をありがとうございます。迫害の中にいる時、私たちは神様に見捨てられているのではありません。むしろ、迫害の中にいるキリスト者のそばに、あなたはおられます。迫害には積極的な意味があり、その経験を通して、神様はその人に恵みを与えて下さるということを、今日学びました。今、世界で起こっているような迫害がもし日本で起こるなら、ここにいる一人一人の信仰を守って下さい。そしてこの教会が、御言葉を語り続けることができるようにして下さい。そして使徒たちが味わっていた、どんな状況にも関わらないあの喜びを、私たちにも与えて下さい。主よ、あなたの御名を崇めます。(2018年8月19日礼拝 武田遣嗣牧師)
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