その人を知らない ルカの福音書22章54~62節

22:54彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。 22:55彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。 22:56すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」 22:57ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。 22:58しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。 22:59それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。 22:60しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。 22:61主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。 22:62彼は、外に出て、激しく泣いた。

 

 私は幼少の頃から、祖母の影響で日曜日にお寺参りに行っていました。お経と説教の後、住職のお嬢さんが弾くリードオルガンに合わせて、仏教聖歌を歌う、これがお寺参りのプログラムでした。高校生の時、教会に導かれましたが、こうした浄土真宗のバックグラウンドがあっても、キリスト教への違和感は全くありませんでした。

 

 さて、皆さんは「君たちはどう生きるか」という漫画を読んだことがありますか。原作は80年前に書かれ、私は40年前に読んだことがあります。そして更に40年後、マガジハウスという出版社が若い漫画家に書かせたところ、ベストセラーになりました。原作が書かれた頃、日本は日中戦争の泥沼に呑込まれていましたが、著者は少年たちに向かって、「僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。だから、誤りから立ち直ることもできるのだ」というメッセージを伝えました。これをよく読むと、当時の日本に対して語っていたのではないかと思います。私たちは皆をセメントのように固めてしまう時代に生きているけれど、本当は一人一人が自分の生き方を決定できるのだから、いつでも誤りから立ち直れるのではないか、そんなメッセージが込められていると思うのです。そして私はこれを読んで、ペテロの生き様に重なっていると思わずにおれませんでした。

 

 ペテロはいつも皆の先頭に立ちましたが、よく失敗をしました。イエス様は、ペテロがイエス様を否認することがわかっていたので、その眼差しは温かかったと思います。だからペテロは泣いたのでしょう。こういう挫折をすると、私ならもう牧師をやめたいと思います。でもイエス様は、そういう人を教会のリーダーとして育てられました。私は、私たちもそのような者として招かれているのだ、と強く思わされました。私は高校生の頃、友達に誘われて、「断絶」という映画を見に行ったことがあります。映画は、親子の断絶と神と人との断絶を重ね合わせていました。ラストシーンの言葉、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」に、私は本当にうたれました。学校の先生だけでなく、特攻隊に行った父でさえこんなことは言いませんでした。そこで教会に行くようになりました。高校生のクラスに参加しましたが、皆自分のことを正直に話すのが不思議でした。またその後の礼拝では、多くの人がいるのに、一つの家族のような印象を持ちました。特に悩みがあったわけではなく、高校生の時に神様に捕らえられたのだと思っています。その後京都で牧師になり、また出会いがあって仏教の勉強をし、今は教師をしています。武田先生のような若い人たちを裏切ったら、自分は地獄行きだと思いつつ、自分は彼らの真っ直ぐな問いかけに応えられる者ではないということも思わされます。色々な挫折、経験を通し、自分は教師にふさわしいのだろうかと思うこともありました。しかし今は、そんな私であってもイエス様に愛されているし受け入れられている、イエス様はそういう者を用いようとされているのだと強く思うようになりました。自分自身はいつも砕かれていけばいいのだという感覚です。そのようにして、私たちは主の前に生きていけばいいのではないかと思っています。どのように用いられるかは、私たちにはわかりません。ペテロのように砕かれ、また立ち直って歩いていけばいいのです。それが、神様が与えて下さるゆるしではないでしょうか(Ⅱペテロ315)。

 

 天地万物の主なる神様、私たちの本当に短い人生の中で、不思議な導きをいただきまして、あなたに出会うことができたことを感謝をいたします。私たちは、何も持たずに死んでいく者であります。しかし、イエス・キリストによって永遠のいのちを与えられ、私たちがなぜここに生きているかを教えていただき、何のために生き、あなたから愛されているのかを知ることができましたことを感謝をいたします。那珂湊キリスト教会の皆様が、イエス・キリストの御旗を掲げ、この方の救いとゆるしと忍耐を伝え広めていくわざが、更に力強く進められてまいりますように、心からお祈り申し上げます。武田先生の御働きを、どうぞ豊かに祝福して下さい。細川先生の御身体の上に、どうぞあなたの癒しがありますように。主にある交わりがいよいよ祝されてまいりますよう、心からお祈りいたします。(2018930日礼拝  東京基督教大学教授 大和昌平師)

 

☆本日は愛餐会のあと、終活について講演会がもたれました。